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犬の散歩のような、水槽の金魚を池に放すような

私はいかに自分を粗末に扱っていたのだろうか。

「役割」にしばられて、私個人の「自分らしく生きていくこと」をおろそかにしていたと、ここ数日で実感した。


そもそもこのnoteも、私自身の「遊び」の一つなのだ(参考:心を遊ばせる場所に)。遊びだけど、必要。

遊ばない子どもはいないし、犬や猫だって遊ぶ。それは、モンテッソーリ教育風に言えば「自分の成長に必要な事」を勝手にやっているということ。


私のこの思考の遊び、心の遊びは、犬の散歩のようなものだと先日気がついた。いわば「心の散歩」

犬の散歩は、飼い主とのコミュニケーションであったり、外部からの刺激を受けるためであったり、ストレス発散、運動、日光浴など、いろいろな理由があるそうだ。

いずれにせよ、「犬が健康に暮らせるように」必要なようだ。


自分の役割は充分わかっている。健康管理にもそこそこ気を付けている。しかし、それだけじゃない。食事は、栄養補給だけでなくコミュニケーションの時間でもある。入浴は、体を清潔にするだけじゃなく、体を温めたり、やはりこれも、子どもとのコミュニケーションの時間だったりする。

一つ一つの行動が、一つの目的だけで行われているわけではないように、「心の散歩」も、正直なところ、何に効いているのかは分からない。実感できるのはストレス発散くらいだ。しかし、自分にとっては、この時間がないことが、健康を害することにつながっている気がするのだ。


どうしてもやるべきことがあると、「こんな文章を書いている暇があったら、できることがたくさんあるだろう」と思ってしまう。

「ゆったり2時間かけて風呂につかる」のが人生に必要だと思っている人がいるのと同じで、「じっくり時間をかけて思考をめぐらす」ことが、自分の人生には必要なことなんだ。娯楽などではなく。そう実感した。

それに対して、罪悪感を持たないように。罪悪感を持つように仕向けられないように、自分自身が「これを怠ると不健康になる」という意識をしっかり持ってやっていきたい。


「心の散歩」を毎日の日課に。自分の健康と、幸せのために。



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