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【素面のダブリン市民】第1回 プロローグ(北村紗衣)

 皆さんこんにちは。今日から『素面のダブリン市民』の連載を始めることになりました、北村紗衣です。ふだんはシェイクスピア、フェミニスト批評、舞台芸術史を研究している他、映画批評なども書いています。書肆侃侃房からは『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を2019年に刊行し、もとになったウェブサイトwezzyの連載の一部もWeb侃づめのアーカイブにありますので、興味がある方は見て頂けますと幸いです。

 『素面のダブリン市民』では、私が1年間、サバティカルで滞在することになったアイルランドのダブリンでの出来事を毎月ゆるくお話する予定です。1年間お付き合い頂けますと幸いです。どうぞよろしくお願い申し上げます。

サバティカルって何?

 さて、まず上の文章で出てきた「サバティカル」って何?という方も多いと思います。大学で働いたことのない方には全く馴染みのない言葉だと思います。まずはこちらから説明します。

 サバティカルというのは、大学教員が所属する大学を離れて他のところで研究をする期間のことです。1年間のことが多いですが、それ以上とる人もいます。この間、大学教員は大学の教育や校務には携わりません。

 なんでそんなものが必要なのか…と思う人もいるかもしれませんが、これは研究のためには必要なことです。現代の大学では、研究・教育という教員のメインのお仕事以外に、大量の事務仕事が業務を圧迫しています。正直なところ、研究・教育以外の業務負担が大きすぎるせいで、大学教員はろくに研究ができませんし、教育で新しいことを試すための授業準備の時間すらまともにとれない状況です。こうした事務仕事から離れて自分の研究に専念し、帰ってきた後はその成果を大学教育に生かすというのがサバティカルの目的です。

 サバティカルは「サバト」、つまりユダヤ教の安息日から来ているのでお休みのように聞こえますが、実際はお休みではありません。事務作業や教育がなくなるだけで、教員は研究をします。ふだんは時間がなくてできない大きなプロジェクトに取り組むことができますし、自分が住んでいるところから遠い研究所や図書館などに滞在してふだん使えない資料を使うこともできます。分野によっては時間がかかるフィールドワークをする研究者もいます。授業がある期間に開催されるのでふだんは出席できない国際学会に出席したり、私のような舞台芸術研究者の場合はゆっくり国際舞台芸術祭を見に行ったりすることもできます。

 私は2022年度から2023年度の2年間、所属している武蔵大学人文学部英語英米文化学科の教務委員をつとめていましたが、教務系の委員の仕事はあまりにも多忙であるため、この2年間はほとんど論文も書けませんでした。まずは事務仕事をスリム化し、大学の教職員を増やして大学教員の多忙を解消するべきなのですが、なかなかそれは実現できていません。サバティカルに入って、毎日意味不明なエクセルやら文部科学省のナントカ…みたいな資料やらが送られてくることがなくなり、非常に清々しい気分です。

 サバティカルの間、大学教員はふだんの勤務先とは別の大学や研究所、図書館、博物館などの研究施設や文化施設に受け入れてもらって研究をすることが多くなっています。たまに日本でも「客員教授」とか「客員研究員」などの肩書きで大学などに外国から研究者が来ていることがありますが、これはサバティカルの場合があります。サバティカル受け入れ先では、客員の研究者はセミナーをやったり研究会に参加したりプロジェクトにかかわったりするのが求められることはありますが、授業をしたり、学生指導をしたりする義務は通常ありません。

アイルランドってどんなところ?

 私が1年間滞在するのはアイルランド共和国のダブリンです。アイルランドについてはあまりにも誤解が多いので、とりあえずアイルランドって何なのかも説明しておきたいと思います。

 まず、アイルランドとアイスランドをごっちゃにしないようにしましょう。私はアイルランドに赴任する前、1週間で2回くらい「火山は大丈夫ですか」と聞かれたのですが、火山活動が盛んなのはアイスランドです。アイスランドはアイルランドよりだいぶ北です。

 アイルランド共和国があるアイルランド島はグレートブリテン島の西にある島です。この島の南側がアイルランド共和国です。島の北側である北アイルランドは現在もグレートブリテン及び北アイルランド連合王国、つまりいわゆる英国の一部です。今、我々が「英国」とか「イギリス」と読んでいる国はイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つの国からなっている連合王国で、アイルランド共和国は断じてその一部ではありません。混同しないようにしましょう!

 アイルランド共和国は長きにわたり英国の植民地でした。19世紀には大規模なジャガイモ飢饉が発生しましたが、英国政府の無能のせいもあって100万人以上が死亡し、少なく見積もっても100万人以上がアイルランドを出て移民しました。20世紀に入ってから、アイルランドは血みどろの戦争を経て独立しました。独立後も島の北側は英国領で分断国家なので、統一を求める動きがあります。とりわけ英国がEUを離脱したせいでアイルランド共和国との間にEU圏と非EU圏を分ける国境が発生することになってしまい、経済的・法的な混乱が発生したため、北アイルランドを無視してBrexitを決めた英国政府から離れて統一アイルランドを望む動きも強くなっています。

 アイルランドはカトリックが多い国です。独立後も保守的なカトリック教会の影響力が強く、そのために大きな社会問題がいくつも起こってきました。カトリック教会の聖職者による子どもの性的虐待や、女性保護施設・孤児保護施設などでの差別的な虐待は今では悪名高いですが、長きにわたって隠蔽されてきました。1996年までは離婚もできず、中絶が国内で合法的な医療の一部として提供されるようになったのは2019年からです。一方で2015年には世界で初めて国民投票で同性婚を合法化した国になっており、近年は保守的な態度にも変化が見られます。

 ここまでは深刻な話題ばかりでしたが、もちろんアイルランドには楽しいことや美しいものもたくさんあります。緑が美しいので「エメラルドの島」と呼ばれています。また、中世の修道院でキリスト教の研究が栄えたため、「聖人と学者の島」と言われたこともありました。また、伝統的に音楽やダンス、文芸が盛んです。U2やエンヤ、クランベリーズなどアイルランド出身のミュージシャンはたくさんいますし、靴の底で板床を踏んで音を立てながら踊るアイリッシュダンスは世界的に人気があります。著名な作家をたくさん輩出していますが、とくに19世紀末以降、ダブリンは「ダブリンの4人」と言われるオスカー・ワイルド、ジェイムズ・ジョイス、サミュエル・ベケット、ウィリアム・バトラー・イェイツを生んでおり、文学都市であることに誇りを持っています。

 こうした伝統のせいか、アイルランドでは芸術や学問を大事にする風潮がイギリスや日本などの資本主義にのみ込まれた国々よりも比較的強く残っているように思われます。アイルランド大統領はそれほど政治的な権限は大きくない仕事ですが、初代大統領のダグラス・ハイドも、現在の大統領のマイケル・D・ヒギンズも詩人で学者です。まだ到着したばかりですが、大学の雰囲気もイギリスや日本に比べると多少伝統的でのんびりしており、教養主義的であるように思われます。

 私が客員研究員として赴任したトリニティ・カレッジ・ダブリンはエリザベス1世の勅許で作られたアイルランドで最も古い大学です。大きな図書館を有しており、なんと英国とアイルランド両方の納本図書館です。つまり、建前上、英国とアイルランドで出た本は全てここの図書館に入っているはずです。有名な装飾写本『ケルズの書』をはじめとする貴重な資料を多数所蔵している他、『スター・ウォーズ』シリーズのジェダイ公文書館のモデルになったという素敵な部屋があります(この記事の上のバナーは、私がスタッフツアー時に撮ったそのロングルームの写真です)。『スター・ウォーズ』ファンの私としてはとても嬉しいところです。

 最後に連載のタイトル『素面のダブリン市民』について簡単にお話しておきましょう。『ダブリン市民』(1914)はジェイムズ・ジョイスの短編集で、20世紀初めのダブリンの人たちの暮らしを活写した物語が15作おさめられています。1編の長さが手頃で英文学の授業でよくとりあげられるので、英文学者はジョイスの専門家ではなくともたいてい読んだことはある…くらいの有名作です。私も1年間ダブリン市民になるということで、タイトルの後半はこれからとっています。「素面」のほうは、私が全くお酒が飲めないからです。アイルランドというとギネスビールやアイリッシュウィスキーが有名でお酒の国というイメージがあり、ギネスも飲めなくてアイルランドに住んで大丈夫か…みたいなことを言われたりもしたのですが、アイルランド=酒飲みみたいなステレオタイプもあんまり良くはないですし、素面なりにダブリンで楽しめる方法を見つけていきたいと思います。

 こんなところで1年間、研究をすることになりました。次回以降はアイルランドで触れたいろいろなものやイベントについて書いていきたいと思います。なにとぞよろしくお願い申し上げます。

プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus


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