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【素面のダブリン市民】第5回 実在するアイルランド語ヒップホップトリオを題材にした新作映画『ニーキャップ』(北村紗衣)

アイルランドとことばと映画
 
アイルランドに住む人の大半は第一言語として英語を話しています。しかしながらもともと話されていたのはアイルランド語でした。アイルランド語は英語とは系統の違う言語で、アイルランドが英国の支配下にあった時代に、英語に押されて話者が激減したという経緯があります。現在、アイルランド共和国はアイルランド語と英語を公用語としており、アイルランド語を必ず学校で子どもに教えるなどさまざまな努力をしていますが、英語と全く似ていなくて英語話者には習得が困難であるため、なかなか話者数は回復していません。2022年の国勢調査では約515万人の住民のうち7万2000人くらいが毎日アイルランド語を話す そうですが、これは人口の1.5%に満たない数字です。

 英領である北アイルランドでは話者はさらに少数です。2021年の国勢調査では、北アイルランドでアイルランド語を第一言語とする話者は6000人程度で、これは人口の0.3%くらいです。ポーランド語やリトアニア語を第一言語とする人のほうがアイルランド語話者より多いくらいです。

 話者数が少ないアイルランド語ですが、近年、アイルランド語映画が注目されるようになっています。2021年には北アイルランドでアイルランド語の北欧ノワール風ミステリ映画『Doineann (嵐)』が作られました。2022年のアイルランド語映画でアカデミー国際長編映画賞候補にもなった『コット、はじまりの夏』は日本でも公開されました。そしてサンダンス映画祭とゴールウェイ・フラー映画祭でとった賞を引っさげて2024年8月に一般公開され、本年度のアカデミー国際長編映画賞のアイルランドからのエントリーとして提出されたのが、今回とりあげる映画『ニーキャップ』(Kneecap)です。


ニーキャップとベルファスト
 
ニーキャップは北アイルランドのウェストベルファスト出身のヒップホップトリオです。メンバーはモ・カラことリアム、モグリー・バップことニーシャ、DJプロヴィことJJの3人で、全員アイルランド語話者です。アイルランド語に英語を交ぜたラップ楽曲を作っており、2017年頃から活動を始め、2枚のアルバムを出して今年はグランストンベリー・フェスティバルにも出演しました。

 メンバーが育ったウェストベルファストは、北アイルランド紛争により最も多くの犠牲者を出した地域のひとつです。映画『ニーキャップ』はこの土地柄が重要です。まずはこのあたりについて少しおさらいしておきましょう。

 連載初回でお話したように、アイルランド島は英領である北アイルランドとアイルランド共和国に分かれた分断国家のような状態にあります。北アイルランドが共和国に統合される統一アイルランドを指向するナショナリストやリパブリカン(共和主義者)と呼ばれる人々と、北アイルランドが英国に留まることを指向するロイヤリストやユニオニストと呼ばれる人々の間で紛争がありました。統一アイルランドを指向する人はカトリック、英国に留まることを指向する人はプロテスタントが多数を占めていました。カトリック系住民は根強い差別を受けていたため、1960年代以降は公民権運動が行われるようになりましたが、これに対する弾圧も行われ、1960年代末からは住民同士の対立が激化します(アカデミー脚本賞もとったケネス・ブラナー監督の映画『ベルファスト』はこの時代の劇的な治安の悪化を描いています)。1972年にはデリーで市民のデモ隊に英国軍が発砲し、死傷者が出るという血の日曜日事件が起こっています。両派はそれぞれ民兵組織を作り、武装闘争が行われるようになりました。

さまざまなメッセージが書き込まれたベルファストの通称「平和の壁」

 血で血を洗う紛争の後、1994年にリパブリカン民兵組織であるIRA暫定派が停戦を発表し、1998年にグッドフライデー合意が結ばれ、武装闘争は一応の終結を見ます。完全に火種がなくなったわけではないのですが、映画『ニーキャップ』で若いメンバーたちが自分を「停戦世代」と呼んでいることからわかるように、既に停戦後に生まれた人々が大人になるくらいは時間がたっています。しかしながら紛争の傷跡は深く残っており、この地域に住む市民の多くは精神的なトラウマに苦しんでいます。現在もベルファストのプロテスタントとカトリックのコミュニティの間には大きな分断があり、両両コミュニティの間には「平和の壁」と呼ばれる塀があります。さらにベルファストのカトリックが多い地域は非常に貧しく、ドラッグ売買などの犯罪が横行していると言われています。日本でも公開されたドキュメンタリー映画『ぼくたちの哲学教室』は、こうしたベルファストの厳しい環境の中で、少年たちがドラッグや酒、暴力などに染まって人生を台無しにしないよう、小学校で哲学を教える試みをとりあげた作品です。

テロで多数の人が死亡したプロテスタントの地区であるシャンキルにある壁画。
女性たちが平和を求める声を、キルトを模したデザインで表現している。
ベルファストには政治的な内容の壁画が多数ある。


ことばと音楽の力を信じる映画『ニーキャップ』
 
映画『ニーキャップ』は、事実に基づいているところと全く基づいていないところが交じった不思議な映画です。グループメンバーは本人たちが演じていますが、脇を固めるのはマイケル・ファスベンダーなどプロの俳優です。明らかに誇張していると思われるところも多い一方、妙にリアルなところもある…というような現実と幻想が入り乱れた映画です。

 ニーシャの父アーロ(マイケル・ファスベンダー)はリパブリカン民兵組織の悪名高い闘士で、英国警察の目を逃れるため死んだフリをして潜伏しています。アーロにあまり会えずに育ったニーシャは、小さい頃に父親から教わったアイルランド語を大切にして暮らしていますが、一方で町のチンピラ文化にすっかり染まり、同じくアイルランド語話者である親友のリアムとドラッグを売買して暮らしています。リアムはパーティで逮捕されてしまいますが、この時に英語で話すのを拒否してアイルランド語しか話さなかったため、地元の学校でアイルランド語を教えている教師のJJが通訳として呼ばれます(この「警察に対して英語を拒否してアイルランド語だけで話す」という展開は2011年のアイルランドのヒット映画『ザ・ガード〜西部の相棒〜』やダブリンの人気お笑いトリオであるFoil Arms & Hogのコントにもあるので、定番です)。あまり面白くない教科書を使ってやる気のない子どもたちにアイルランド語を教えることに限界を感じていたJJは、リアムやニーシャがアイルランド語で作っているリリックに可能性を見出し、ここからヒップホップトリオが始動します。

 グループ名の「ニーキャップ」(Kneecap)は、映画の中ではベルファスト名物だから…ということでリアムが思いつきみたいな形でつけたということになっていますが、これは名詞では「ひざ」、動詞では「ひざを撃つ」ことを意味します。紛争当時の北アイルランドでは、民兵同士の抗争や自警活動の中で、裏切り者や地元の犯罪者などの足を撃って歩けなくするという私刑が横行していました。途中でニーキャップのメンバーたちがドラッグを売っていたということでリパブリカン系の民兵組織に脅迫されるところがありますが、ドラッグ売買関係者も私刑の対象となっていたということです。

 ニーキャップのリリックは、ウェストベルファストのドラッグまみれの生活描写にリパブリカン的主張が混ざったものです。いろいろな意味で過激で反体制的、反権威主義的であるため、メディアでは「セックス・ピストルズ以降、英国とアイルランドから出てきた中で最も物議を醸すバンド」と言われています。一方で人を食ったようなユーモアがあり、不穏で過激な内容を歌いつつもなんとなくとぼけた感じがあるところに特徴があります。

 映画『ニーキャップ』もグループの楽曲同様、暴力や貧困、ドラッグ、紛争の傷跡などのかなり悲惨な内容をエネルギッシュなユーモアで冗談のネタにした作品です。作中でニーキャップのメンバーがやっていることはドラッグ売買など全然褒められたものではない上、軽い気持ちでやったことのせいで民兵組織が襲ってくるなどとんでもないことになるのですが、それがウェストベルファストのある意味では不条理な日常の一部として面白おかしく提示されています。ここまで大がかりな問題ではなくても、リアムがプロテスタントの女の子ジョージアと付き合い、本気になり始めたところで「英国は出て行け!」というリリックの曲をステージで披露してしまってガールフレンドに怒られる…という北アイルランドの生活に根ざした行き違いも描かれています。

 少なくともこの映画の中では、音楽以外ではけっこうしょうもない日常を送っているニーキャップですが、一方で本作の大きなテーマは少数言語をめぐる政治的問題です。北アイルランドにおけるアイルランド語は本作でも描かれているように2022年まで公的な地位が認められておらず、アイルランド語話者の権利は保障されていませんでした。こうしたこともあり、北アイルランドのアイルランド語はナショナリズムとつながって、とくにカトリックの住民の間で特別な意味を持つようになっています。映画の中では「アイルランド語で話されるあらゆる単語はアイルランドの自由のために発射される弾丸だ」と言われていますが、この映画は問題だらけのベルファストの日常を描きつつ、実はことばとそれを取り巻く文化こそがいかなる暴力をもしのぐ最も強い政治的な力なのである…という、基本的には非常にポジティブなメッセージを発していると思います。

 ニーキャップのラップは過激で、私も個人的に全部がピンとくるというわけではありませんが、なんだかんだで魅力的です。貧しい地域で暮らす若者の日常生活の不満や苦労を、気の利いた韻を駆使して政治的主張も交えながら面白おかしく伝えています。映画の中ではニーキャップのラップを聴いて、これまでアイルランド語の授業に関心を示さなかった子どもたちがちゃんとアイルランド語を学んでちょっとしたラップごっこをしたりするようになり、JJが嬉しそうにする場面があります(実は私も、アイルランド語は何度もチャレンジして毎回発音だけで挫折しているのですが、この映画を見て文字の読み方くらいは覚えないと…と『ニューエクスプレスプラス アイルランド語』を引っ張り出しました)。ニーキャップの品のないリリックは真面目に少数言語話者の権利運動をしている活動家たちにとってはアイルランド語のイメージを悪化させる可能性がある良くないものなのですが、この映画では言語にはラップのような生きた詩と音楽が必要なのだ…ということがニーキャップの生き生きとしたパフォーマンスを通して主張されています。『ニーキャップ』は、ことばと音楽の力を信じることに関する映画なのです。

プロフィール
北村紗衣(きたむら・さえ)

北海道士別市出身。東京大学で学士号・修士号取得後、キングズ・カレッジ・ロンドンでPhDを取得。武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア・舞台芸術史・フェミニスト批評。
twitter:@Cristoforou
ブログ:Commentarius Saevus

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