達成しない
◯読書の例
例えば、「本を読むほど賢くなるわけではないということを、本をたくさん読む人ほど知っている」みたいなことがある。
さらに、その内実についてしっかり語れる言葉を持っている人までいる。
「ただ量を読むのではなく、どう読んだかだ。 もっと言えば、本を読むことで自分の何が変化して世界がどう広がったかを感じ取ることが肝要なので、読んだ量を賢さと結びつけるのは愚かだ」と言葉にできる。 本をたくさん読むことでそれに気がつき、考えが進んでいることになるため、読書の複雑系にタッチできるという点においては、本をたくさん読むことで人は賢くなる、ということを証明しているとも言える。
良い悪いではなくて、そういうことってあるよね、って話だ。
◯僕の例と、アンカーポイント
僕はとにかくおじさんと男性の悪さについてずっと考えて書いている。
その過程で世のおじさんの悪いところを見つけて暴いて、さらに自分にはその見つけた行動を禁止しているので、禁止したことの分野においては、悪くなくなっている側面もある。
僕自身が中年男性である以上、僕に自動的に付随している「悪さ」にも自覚的になっている。
読書のように、おじさんについて考えるほど、悪さに自覚的になっていると言える。
しかし、だ。
7年前にブログを書き始めた時は、悪いおじさんの特徴を挙げて、反面教師のような形でそのキモさを浮き彫りにして読んだ人ごと世直ししてやろうみたいな気持ちもなくはなかったんだけど、40歳にもなって、自分のおじさん感に「ホント感」が増してきた時に、もう世の中のこととか周りのこととか言ってる場合じゃなくなってきた。
僕はおじさんの悪さを論って糾弾することで、いったい何を達成しようとしているのか
これが、わからなくなってきちゃった。
僕には、多くの男の人と同じように悪いところがたくさんあるが、それに気づいて隠したり禁止したりできている部分もある。
同様に、気づかず漏れ出て傷つけたり、意図して溢れさせて周りを怖がらせたりすることもある。
気付いたところで拭いきれない怖さと悪さがある。逃れられない感じがある。
自分を殺す方向で、死んだ方がいいという結論を出しながらも、生きているというこの状況は何か。
今、なんとなく僕の眼前にある欲望としては「怖くなりたくない」というのがある。
僕も男の人もおじさんも悪いんだけど、悪いなりにここから先には行かないようにと留まろうとしてるポイントがある。それを達成するために、足掻いている感じがある。
◯ずっと嵐
過去にしてきた加害や、差別的な言動を取り返すことはできないが、これ以上落ちていかないために生きている。
日常的な応対や言動については、たくさんの禁止を設定することでとどまることもできる(それでも根本的なアップデートは自分が男性の特権に塗れすぎれいるので出来ないが)。
しかし、こと性欲については、なにせデータや経験が貯まっていかないので、永遠に永久に悪さが拭えない。
性的欲求について考えることを放棄しておきながら、おじさんである自分が怖くなくなることはできないだろう。
今年も気温が上がってきて、内心の自由という言葉に甘えない魂の自殺を試みている。
サブウェイのアボカドベジー食べます