好きな歌詞は「キミに恋した僕を好きにして」。恋愛マンゴー編
いま、アレクサでラルクアンシエルを聞いております。
およそ20年前ぶりに改めて聞いてみると一人称が「僕」であり、だいたい「君」に恋して振り回されていることが判明。
君に心酔して、もろ手を広げて五体投地。
君さえいればOK,そのためなら僕はなんだってする……!
今思えばちょっと「あぶねー」盲目感ですが、裏を返せば耽美な蜜。
恋に恋して、恋の先に愛があると思っていた若かりしころのマンゴーは、まんまとその耽溺沼にハマったのでした。
遡ること数年、このラルクアンシエルと同等、もしくはそれ以上にハマったアーティスト、それはチャゲ&飛鳥です。
小学生ながら、「なんて過剰な歌詞と歌い方なんだ!」と感銘を受け、ASKA大先生の言葉マジックに感化。
私がコピーライターに憧れたのは彼がきっかけだったのかもしれません(そして糸井重里さんが私財を投じて徳川埋蔵金を掘っていたからです)。
「リングのコートを君の指に着せよう」←エンゲージリングのこと
「君を失うと僕のすべては止まる」←心臓も!? 命がけの恋!
「朝と夜、違って見える唇を愛してた」←え、どゆこと?ドキドキ
昭和風にひとことでいうと、
クッサ~!!
なのですが、こうも堂々と歌われると、その世界が現実のものであり、男はそうやって女を愛するのだと錯覚を引き起こしてしまう。
吸収力の高い11歳ともなれば信じて疑わず、その後のマンゴーの恋愛感観ひいては人生観にひじょーに偏った影響を与えてしまったのです。
そんな無償の恋を越えてたどり着く、究極の感情を教えてくれたのもチャゲアスでした。
「どんな”もしも”が君の未来に割り込んでもかまわないさ。僕はずっと味方さ」
『if』より
これ、「どこで何をしようが、あたしゃアンタの味方だよ!」 という肝っ玉母ちゃんが、刑務所の息子に言うセリフですよね。
13歳のマンゴーは、男女の色恋でもこの感情にたどり着けるのか……!
とひじょーーにワクワクし、いつか「私の完全なる味方」に出会う日が来るのだ! とときめいていたのでした。
結果、「いっとき」は「そのような」気持ちになり、ASKAが歌う"ゴール"を体験したような気もします。
でも、人は他人であり、ナマモノ。
人の感情は"一瞬だけ本当"なのだと学びました。
まぁ、だからこそ、言葉で切り取って大切にしたくなるのでしょう。
「完全なる味方」が、私の意のまま動いてくれ、寄り添ってくれるという意味であるのなら、その存在はただひとつ。
私の年齢ぶん連れ添っているぬいぐるみ(整形16回済)、すなわち私の自意識だけなのでしょう。
つまり、恋愛を介して他人のなかから味方を探すものではないのかもな、それがアラフォーになって得た感想です。
それを知ったうえで、ラルクもチャゲアスもいまだに好きです、と強がりを言っておきますね。
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