表現の自由vs.解釈の自由

義務教育で哲学を教えないので、現代人の自由概念は未熟。目に見えやすい「表現の自由」にばかり着目し、「解釈の自由」については蔑ろどころか意識すらしていない人が多い。

故に「悪意ある評価は表現の自由か否か」という論争が未だにある。当然、誹謗中傷や罵詈雑言ですら言論の自由だ。

どんな表現であれ、それを見た者がどう捉え感じるかは解釈の自由。その感想をどう表現するかも自由である。
表現者側が「高評価だけ見たい」「自分の表現は評価されるべき」等と思っていれば、解釈者側の表現である低評価に怒りを感じる事になる。

表現物に対して悪意ある低評価を下すのも怒りの一種だが、それに対して怒るのもまた同じ低評価。お互いに「解釈の自由に責任を取っていない己自身」を合わせ鏡のように投影し合っているに過ぎない。
因果応報、自業自得である。


以下、弊サイトより抜粋。
どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

人格障害者にも言論自由はある。物理的に自由侵害しない限り罵倒も表現自由。言葉狩りは却って「それで罵倒可」の価値観を蔓延化。
差別用語の規制は「その用語で差別可能」を却って固定化強化。言葉狩り表現狩り臭い物に蓋は問題を長期化させるだけ。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。

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