「方言札は差別」とは一概に言えない

>「方言札の再来じゃん。TBSがこんな露骨な方言差別をやったら絶対にダメだろう」

仰々しい拡大解釈だ。
標準語を強制し理不尽な処罰を科すならその「方言札」は差別だが、「方言禁止記者会見」は所謂「縛りプレイ」の一種。番組の企画・娯楽として成立する。
前者が愛のない「いじめ」なら、後者は愛のある「いじり」。いじられた側が苦痛を感じればその時点で「いじめ」になり得るが、それでも「苦痛を感じれば即、いじめ・人権侵害・ハラスメント・差別」とはならない。

方言札も札を下げた子供が苦痛を感じれば差別だが、そこにゲーム性を見出し「あ!◯◯ちゃん今、方言言った( ´艸`)」「方言出ちゃった(๑´ڡ`๑ゞ」等と楽しんでいれば、差別に当たらない。
「楽しんでいても差別だ」というならババ抜きや鬼ごっこも差別になるし、「少しでも苦痛を感じていれば差別だ」というなら勤労や納税や(琉球語を教える)教育も差別になる。

因みに、ウイグル自治区の同化教育を批判するネット右翼が沖縄の方言札を一切問題視しないのは、典型的なダブスタである。「三大義務は国家が勝手に決めたルールで差別だ」と主張するリバタリアンの方が、まだ筋は通っている。

以下、弊サイトより抜粋。

差別ヘイト蔑視は共感力適応力問題解決力の低いコミュ障の内集団バイアス。目的は劣等感情緒不安の払拭。原因は低水準教育。
「差別ではなく区別」は差別主義者の、「区別ではなく差別」は反差別主義者の常套句。
反差別の裏には差別心が潜む。例えば異属性間の収入格差を論うのは「高給者ほど偉い尊い」等の職業差別拝金主義の表れ。

差別と区別の違い note.com/kanjoj/n/nb37c93be59c3

差別を批判する人ほど差別している5 note.com/kanjoj/n/n1a0fcd14f9b8

人権侵害に関するよくある勘違い kanjo.g1.xrea.com/ijime.htm

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