同性愛嫌悪を嫌悪する同性愛者

またしても言葉狩り・表現狩りが発生。反差別を訴える人自身の心の奥底にこそ根強い差別心があるのだが、彼ら自身がそのことに気付かない限り、こうした排除主義的傾向は今後も繰り返される。
以下、引用は記事より抜粋。一部は「差別を批判する人ほど差別している5https://note.com/kanjoj/n/n1a0fcd14f9b8」でも取り上げたfairの松岡宗嗣氏の発言。
反論内容の論拠詳細は弊サイトをご参照。

>拡散され続けることで、同性愛は嘲笑しても良いという空気が温存され、いじめやハラスメント、ヘイトスピーチなどに繋がっていく可能性があります

そのような”空気”は「元々差別心がある人」の脳内にのみ存在する。その空気を口実にいじめ等に繋げる人の解釈の問題だ。
仮に直接「同性愛者は虐めて良い」という情報を拡散したとしても、その拡散行為にいじめ等の原因はない。因果を遡り過ぎて真の原因を見誤っている限り、イタチごっこな対策に終始し実効性ある対策は取れない。

>「差別的なニュアンスを含まないネットミームと解釈するのは苦しい」

差別的なニュアンスしか含まないネットミームと解釈する方が苦しい。

>「あからさまなヘイトスピーチよりも、周囲に笑ってもらえる冗談として使えるネタだという認識そのものの方がグロテスク」

本物のヘイトスピーチのグロさを認知していない者による、大仰な平和ボケ。実際には、周囲に笑ってもらえる冗談として使えるネタだという認識そのものよりも、あからさまなヘイトスピーチの方が遥かにグロテスク。

>企業が自社のPRのために同性愛嫌悪(ホモフォビア)に基づく侮蔑的なネタを使うことは、同性愛者を嘲笑しても良いというメッセージを発信

「ゴリラゲイ雨」は必ずしもホモフォビアに基づかない。また”嘲笑”程度のことは表現の自由の範疇。遥かにグロテスクなヘイトクライムをこそ、問題視すべきである。

>『ゴリラ』と『ゲイ』という言葉を組み合わせ、それらのイメージを『おかしい』『面白い』と嘲笑する背景には、同性愛を劣位に置く差別的な意識があります

ゴリラかゲイ又はその両者を心のどこかで差別しているから、劣位と感じているに過ぎない。全く差別の意図なく面白がることは可能であり、表現の自由。

>差別的な背景に基づく、単なる同性愛嫌悪的(ホモフォビック)で侮蔑的なネタである

侮辱でないものまで侮辱と決めつけるのは、いわば同性愛嫌悪嫌悪。何をどう嫌悪するかは内心・思想・信条・宗教の自由だが、差別主義者を差別するのと同様、同じ穴の貉だ。

>企業が公式アカウントで同性愛嫌悪的なネットミームを使うことは、同性愛者を嘲笑しても良いという認識を広げる

嫌悪の意図がないものまで同性愛嫌悪的と見做すのは、認知が歪んでいる。こうした被害妄想的な解釈は、往々にしてその主張者が受けたトラウマに起因する自信の無さ・劣等感からくる。自己否定感が強く自己評価の他者依存性が高いので、嘲笑の的になることにすら耐えられない。その点、ヘイトスピーチをする差別主義者と根は同じである。

>東急ハンズの「不快に受け止められた方に謹んでお詫び申し上げます」「差別的な意図は念頭になく投稿したもの」といった謝罪が、受け取り手に責任を転嫁する「ご不快構文」だという批判もある。

事実、不快感の原因はそれを感じる者自身の固定観念にある。己の解釈の結果(不快や誤解等)を情報発信者・表現者に責任転嫁するのは筋違い。

>差別する意図がなかったのであれば、性的マイノリティが置かれる差別の問題に対する認識が欠如しており、企業として人権問題に対するリスクや認識の甘さがある

逆にこの主張者の認識が厳し過ぎ、その為に不寛容になっている。

>「同性愛に対する侮蔑的なインターネットミームがトレンドにあがっている時は、トレンドから削除してほしい」

こうした「不快・目障りだから」という理由で排除する行為は、却って同様の排他主義を助長する。臭い物に蓋式やり方では問題は解決しない。


以下、弊サイトより抜粋。

他者の身体的自由を侵害しない限り差別や罵倒・中傷も言論自由の範疇。無教養者・精神異常者・人格障害者にも言論の自由はある。
言葉狩り表現狩り等の言論規制は差別を潜在化陰湿化させ根本解決にならない。為すべきは自由保障と未熟者の早期発見と更生教育。
自由には責任が伴う。自由概念の乏しい者ほど「他人の表現の自由と責任」ばかりを論い「己の解釈の自由と責任」は棚上げする。
他者に不自由を与えるから自らも不自由を得る。己の解釈の結果(不満・不快・不信・不可解)を他者のせいにするのは筋違い。

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