大人の対応を批判する人々
抗議するもしないも言論・表現の自由なのだが🙄
>ジャーナリストの浜田敬子氏は、上川氏の対応について「こういう発言は受け流せばいいという間違ったメッセージになる」と指摘しています。
寧ろ、「幼稚な発言は無視すれば良い」という正しいメッセージになる。事実、スルーが最適解だ。揶揄や侮辱に一々反応すれば、却って相手を喜ばせるのがオチ。
>確かに上川氏ほどの立場になっても、上からの侮辱的な発言に対して抗議できないとなると、社会的立場の弱い人たちは「声を上げるなど、到底、無理」と思わざるを得なくなります。
発想が依存的。抗議は各人の言論の自由であり、一政治家の挙動に倣う義理はない。また彼女が「できない」と確定した訳でも無い。
>他人を揶揄する人は、相手が反論しないと分かれば言動をエスカレートするのが常ですから、状況はさらに悪化することでしょう。
常ではない。よって悪化するとは限らない。揶揄や侮辱に一々反応すれば、却って相手を喜ばせる(再掲)。
>諸外国から上川氏に対し「自身に降りかかった蔑視発言ですら抗議できない現実を考えると、日本に状況を変える能力はないのでは?」と指摘された場合、上川氏には反論する術がありません。
幾らでもある。「対人論証等の詭弁は論う価値もない。日本の国益のため大局的観点から外交する」等。
>ところが、日本も同じように人権問題を抱えていることから、中国に対して強く出られないという現実があります。
どの”現実”の話かは不明だが、元々の主張の仕方が弱いだけだろう。必要なのは、相手が何を言おうと論駁できるだけの緻密な事前準備と論理的思考力だ。人権問題はどの国も多かれ少なかれ抱えており、「強く出られない口実」にならない。
>上川氏の一連の対応によって、日本は人権問題という大きな弱点があることを、わざわざ諸外国に露呈する結果となってしまいました。
寧ろ「日本には言論の自由があり、現外務大臣は器が大きい」ことを示している。
以下、弊サイトより抜粋。
自称反差別主義者や自称愛国者が差別や自虐史観を声高に非難する目的は、自身の心底に潜在する劣等感・情緒不安の解消。
差別心や自虐的国家観を自覚なく他者に自己投影して同属嫌悪する偽善者ほど、自身の平等主義や自慰史観に心酔し正義面する。
どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。
自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
雑言等は不遇な未熟者の自己投影・同属嫌悪。表現狩り等で自由奪えば却って暴発。必要なのは排除処罰ではなく治療教育。
人格障害者にも言論自由はある。物理的に自由侵害しない限り罵倒も表現自由。言葉狩りは却って「それで罵倒可」の価値観を蔓延化。
多様性・自由も程度問題。多様性の欠如した未熟者を非難・排斥する多様性の欠如に不寛容なのもまた多様性の欠如。以下ループ。
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