おこしやす、私。

京都という街に行くとき、私は常にお客さんです。
私の生まれ故郷から電車で1時間強ほどの距離にあるあの街では、私の多くの友人たちが過去あるいは現在に生活したり、学校に通ったり、働いたりしています。
そういう訳で私もあの街には何度も遊びに行きました。
朝寝坊な私の中でのあの街の記憶はいつも、昼過ぎに電車を降りたときのものであり、夕方のあの街に住む友人たちとの楽しいものであり、夜に遊び疲れて帰路につくときのものです。
この記憶の偏りこそが、あの街に「住んでいない」ということなのだと思います。
そこに生活があれば、慌ただしい朝の記憶や、午前の営みを終えて一息つく真昼の記憶など、あらゆる時間に様々な記憶が生まれ、時刻のキャンパスが埋め尽くされながらそれが当たり前のものになっていくのでしょう。
多くの友人たちが「生活の記憶」を持つあの街に、お客さんとしての記憶しか持たない私は、そのことに一抹の寂しさを覚えることもあります。
ただ最近少しだけ大人になった気がする私は、偏りや不完全性に人生の美しさを感じるようになってきました。
あの行くべき場所見るべき場所が満ち溢れた魅力的な街に、友人たちと比して不完全な記憶しか持たない自分の現状に、例え理想通りにいかなくても必死にもがく人生の美学を私は投影しているのかもしれません。
もし将来仕事を選べるくらい偉くなり、その機会を得たら、お客さんの気持ちを忘れないまま京都に一年くらいは住んでみたいなと思っています。


デザインがイケているので気に入っている京都マラソン2023の完走メダル



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