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柳田君へ


お元気ですか。こちらは変わらず元気です。


夏の息もそろそろ絶えそうな時分です。夏が逝けば次は冬でしょう。秋というものを、私はどうも感じられないのです。まあかな紅葉を見ても、涼やかな風が吹いても、それが秋だと実感できないのです。ただ夏と冬との繋ぎ目に、季節の疲れが見え隠れしているだけと受け取ることしかできません。心が鈍っているからでしょうか。


私は最近よく信念とは何であろうかと、ぼうっと空想しています。
ポエジーは、肉体の暇に対して、頭脳の暇の中に生まれるものです。ただ、その暇というのは、肥大化してしまった理性の延長上に生まれるもので、これを憂えるべきなのか、嬉々として享受するべきなのか、私にはわかりません。


話を元に戻しましょう。信念とは何か、君は考えたことがありますか。
私も、君に意見を聞かせるほど、思案できたわけでも、深淵に辿り着いたわけでもありません。ただ人より感傷的な文学徒が海を見ながらそぞろに考えるくらいの、とりとめのない空想だと思って読んでください。


信念は、私を自由にも不自由にもします。信念は、時に自らの行動の可能性を狭め、縛ってしまうこともあります。しかし、信念は一方で、この世に負けそうになった時に、この世のために命を捨てそうになった時に、自分を守れる最後のウエポンにもなり得ると思うのです。


柳田君、予科で一緒だった平野君を覚えていますか。

彼は、母親に学徒出陣を免れんためどうか理科に転向してくれと哀願されたそうです。しかし、彼は文科学生としての生き方を、その労苦を捨てる気にはなれず、涙ぐまるる親心に憤慨さえし、そのジレンマに慟哭し、遂にはその一徹の信念を貫いたのです。

世は彼を非合理的だと嗤うでしょうか。自らの信念によって自らを滅ぼした哀れな文科学徒だと嘲るでしょうか。そうかもしれません。

しかし、私はどうもそうは思えないのです。彼の生き方を、私は無条件に肯定したくなるのです。

文科学徒として生きることを決意し、その道に飛び込んだ。それを曲げて、理科方面に転向し生き残る道も彼にはあった。しかし彼は、そうして得た生には魅了されなかったわけです。それを拒んだのは彼の信念です。


果たして、信念というのは幸福のためにあるのでしょうか。我々は、幸福のためだけに生きようとしているのでしょうか。

幸福のために、信念があるのでもない。幸福のために人生があるのではない。
ただ、人の心のために人生があるのだと思います。人は幸福になるために生まれたのでも、幸福になるために生きているのでもないと思います。

ただ人は、自分のために生きているのだと思います。
平野君も、我々も、今は国のために生きているように見えるかもしれません。しかし、平野君にとって最後「自分のために生きる」という選択は、生を選択するのではなく、自分の信念を貫くことだったのでしょう。

私は何も死ぬことを肯定しているわけではありません。そもそも死ぬはずもなかった人が、死ぬこと。それ自体は憤慨に値し、悲涙を流すこともあります。「生きたい」と願い、生き延びる道を貫くこともまた生き方です。

私はとにかく、信念を一貫する生き方を他人が値踏みすることを批判するわけです。生き方を、不幸だとか、幸福だとかで、評価することなど誰にもできないです。

私も、幸せになりたいわけではありません。しかし、生きてみたいのです。自分とは何か、私とは何かを知るために。そこで信念にあって死を選択する自分なら、それも受け入れるつもりです。理性の延長上に、私は何を見るのか、私が知りたいのです。

柳田君、君はもうすぐ飛行機に乗ります。平野君も、君も、私の周りから大切な友が一人、また一人と離れてゆきます。君は飛行機の中で、何を見るのでしょうか。何を思うのでしょうか。

ただ、君もきっと信念を抱えたままゆくのでしょう。私は君の心も、信念もわからない。しかし、君は君だ。最後まで君のままだ。


信念を持たずしても人は生きることができます。むしろ、信念があるために葛藤することや、苦しくなることも、不自由だと感じることもあるでしょう。

ただ、私は、私を貫きたいと思うのです。曲がってもいい、弱ってもいい。けど、負けてはならんと思うのです。この世に負けてはならないと。世のために、自我を捨て、空っぽな幸福のためだけに生きるわけにはいかないのです。私は私を貫く、という一つの信念を、幸福という最大公約数的な権力に明け渡すわけにはいかないです。その権力から私を自由にするのは信念しかないのです。

そのことを、私は憂いず、喜ばず、静かに受け入れたいと思うのです。



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