日記(2021年9月27日)

私は自分自身のことを愚かと評す。このように、さも知識人風の文体を装っているが、その中身は何も成せず、作れず、また継続することすらできない、一般社会が定義する「ダメ人間」の一種である。読んできた本の文体が、たいていこのようなものであるがために、ある種堅苦しい(偏見にまみれた意見を言うのであれば「説得力のありそうな」)文章になってしまうのだろう。

人は、その人生の中で最も長く触れてきたものに影響される。生活習慣や好みの味付けに始まり、思想や性格に至るまで。だからこそ先日の日記にて述べたように、成長過程における環境は非常に重要なファクターなのだ。常識、という言葉を本当に使いたくないのだが、やはりなんとはなしに想像できてしまう「自身と同一の環境で暮らす人間の内大多数が持っている習慣・思想」と他者がずれていた場合、それを異分子として認識してしまうことは、人間が社会的生物であるが故の悲しきさがなのであろう。そして、自身が持つ”ずれ”は、非常に分かりずらくなっている。それはひとえに正常性バイアスと認知バイアスのなせる業なのかもしれない。……大人になれば指摘する人間はどんどん少なくなっていき、最終的に「奇人変人」のレッテルを張られる。そうしてまた、どんどんと周囲との溝が深まっていく。

私はそれでよい、と思っている。「何、noteなんて公開媒体にみじめったらしく書き連ねているくせに、格好つけているのか」と諸兄は思われるかもしれないが、これはあくまで”公開されているだけ”の「備忘録」。思想を発信する気もなければ、アンチテーゼともする気はない。頭の中にある考えを、言語化しているだけに過ぎない。

なあに、人間は最後には、忘れ去られるのだから。思考の赴くままに行けばよい。それが国家の定める法律にさえ違反しなければ。幸いにも、常識や倫理と異なり、法にはある程度の明確な線引きが存在する。

唐代の詩人、宇武陵の遺した「勧酒」という漢文の中に、「人生足別離」という箇所がある。かの有名な文豪井伏鱒二はこれを「さよならだけが人生だ」と訳した。これを諦めととるか、今の瞬間は永遠ではない(だから楽しめ)と取るかは、それこそ環境に大きく左右されるのであろうか。

偏っていることを自覚している私は、前者を選んでしまう。

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