手仕事

 クエ縄漁は、少し遠くの舟で待つ漁師のおっちゃんの顔がぼんやりと霞んで見えるくらいの日暮れの時間に出港する。仕掛けを落とすポイントを探すのに小一時間ほど舟を走らせていると、西側の空は素人の水彩画のように立体感を無くし、東側に座る友人の顔が段々と輪郭を無くし、気がつくと照明が点けられていた。夜の海の上は、視界に島が目に入っているのに、一人で舟に乗っているわけではないのにひどく孤独で、古人が舟旅のポエムを書き連ねてきた歴史には思わず頷いてしまう。
 漁の方法は、全長1kmくらいある縄に等間隔に釣り針が繋がれており、舟を走らせながら筒切りにした鯖の切り身を針に仕掛け、次々と海に放っていく、というものである。縄は大きな桶のようなものに綺麗に渦を巻いて収納されており、釣り針は絡み合わないように桶の縁に丁寧に整頓されている。おっちゃんは縄の入った桶の前に胡座をかき、舟が走るペースに合わせて次々と鯖を針に刺して海に投げ捨てていく。舟の照明は夜を照らすに相応しい橙色で、ヒョイヒョイと鯖を投げるおっちゃんの小気味よい手の皺を丁度照らしている。橙の灯りはおっちゃんと舟の道具の後ろに影をつくり、その大事な手仕事だけを私に見せるように、真っ暗な海の中で一点を照らしていた。大体30分以上は鯖を海に投げただろうか。私はその光景をシネマで眺める映画よりもずっとじっくりと魅入っていた。
 クエ縄を仕掛け終わると小休憩を挟み、仕掛けた縄を引き上げる作業に移る。1kmにも及ぶ仕掛けを引き上げて収穫したのは、そこそこのサイズのクエが3匹と小さめのサメ、まあまあのハマチのみであった。売上でいえばあまり上出来とはいえない収穫である。
 4時間ほど舟の上でクエ漁に同行させていただき、帰りの車で思い出すのはあの橙に照らされた手仕事の風景である。あの時間、舟の照明が照らしていたのは世界の中心であり、あのおっちゃんは確実に世界の主役であった。人の手仕事は美しくて、その美しさはお金や名誉といったものに勝るとも劣らない尊いものであると実感する。こういった美しさを自らの生の中心に据えたいと思い、街灯一つもない真っ暗な帰路に車を走らせた。

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