啓蟄

 啓蟄。旧暦の季節区分。土の中で冬籠りしている虫が穴を啓いて動き出すころ。現代の暦では3月6日頃から春分までの季節を表す。春のあたたかさを、視覚や嗅覚だけでなく肌で感じられるようになる頃合いで、人々の行動も少しずつ活発になっていく。

 大観峰、阿蘇のカルデラを一望できる展望台へ向かう道中は、ライダーの波のようだった。ご機嫌にエンジンをふかすおっきな二輪に何台も抜かされ、辿り着いた駐車場は、画面の中でしか見たことのない東南アジアのような駐輪の量だった。阿蘇の今は野焼きの時期で、アジアとは思えないほどカラッとした、黄金色の山並みが一面に広がっていたけど、バイクがあれだけ並んだそれだけで、夏の雨水が蒸し返すような匂いになっていたと思う。革ジャンを着た初老の男たちがソフトクリームの出店に行列を作っていた。

 北九州と横須賀を結ぶフェリーへ原付で乗り込む。丸一日も運行するような大型のフェリーに原付で乗り込む客は自分を除いては1人しかおらず、ツヤツヤした黒光りの車体が二輪の乗り場に行列をつくっている。係員の案内のもと、一台また一台と大きなフェリーの口に同じ速度で吸い込まれていく。フェリーの中の駐輪場で二輪は、ライダーが自分の二輪の個性を誇示するには狭すぎる間隔で収められた。一際小さい私の50ccには随分と肩身の狭い思いをさせたと思う。たくさんの黒光りを孕みながら、おっきなフェリーは夜の海へと繰り出していく。

 横須賀に大きなフェリーが到着すると、荷物をどっさりと背負ったライダーたちがバイクの眠る腹の中に集まってくる。「出発の準備を整えて、しばらくお待ちください」の案内のもと、一斉に各右手がエンジンをふかし始める。ライダーにとって出発の準備とは、エンジンの音を高らかに響かせることらしい。
 天井の低い腹の中に、主張の激しいエンジン音と気道にくるようなガソリンの匂いが充満する。係員の怒鳴るような声も轟音にぼんやりとコーティングされる。吾先に腹の中から飛び出そうと、二輪は狭い車庫の中を旋回し、一斉にフロントのライトで係員の一点を照らす。一匹、また一匹と、ツヤツヤと車体を光らせながら、ほんのりとあたたかくなった横須賀の夜の街へとライダーが放たれていく。春の訪れを喜ぶかのように、エンジン音を高らかに響かせながら。私も彼らに続き、空っぽになったお腹の中から最後の一匹としてフェリーから飛び出した。

 国道を走りながら浴びる風は、まだ冷たかったけど優しかった。 

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