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【ネタバレ】アキバ冥途戦争とは何か

アキバ冥途戦争について書かねばならない

『チェンソーマン』『ぼっち・ざ・ろっく!』など、名作が綺羅星のごとく輝いた今秋のアニメの中でも、完全オリジナルかつハチャメチャな展開で世間の耳目を集めた『アキバ冥途戦争』。「ウマ娘」「ゾンビランドサガ」の系譜に連なり、いわゆる「サイゲアニメ」と総称できる、「萌え(メイド)」と「暴力(ヤクザ)」の世界観の融合が持ち味であろう。

第一話の冒頭から最後まで視聴者を突き放したようなシナリオ、怒涛、理解不能、そのまま最終話まで駆け抜けていった――そのようなイメージをもたれる御仁もおられよう。

しかしながら、外面はいかにもゲテモノでも、王道のエッセンスをしっかりと押さえた「サイゲアニメ」の醍醐味が、『冥途』にはある。

メイドと武器の組み合わせはまさしく王道の性癖である。美少女がおっさんの趣味をやるのも、これまた王道である。主人公たちの成長とライブシーン、いうまでもなく王道である。

「ウマ娘」「ゾンサガ」、そして「冥途」。俯瞰で見れば設定からして妙ちきりんなことこの上ないおかしなアニメ群だが、要所要所でこの「性癖・趣味・成長」の「サイゲ三原則」が守られている。サブカルオッサンとアニメオタクの大東亜共栄圏、藤田晋会長の思い描くユートピアがここにある。ゆえに名作である。

と、言いたいところだが……

前2作と比較して、やや不協和音が目立つ。素直に名作、今季の覇権と断言しあぐねる違和感が残った。

「冥途」の大まかな物語のスジは①とんとことんメンバー紹介(1~5話)②対メイドリアン抗争(第6~8話)③対ケダモノランド決戦(9~最終話)の3部に分けられる。視聴者はいわば主人公なごみと共に世紀末アキバの爛れた世界を徐々に知ることになるのだが……

「なぜ冥途(嵐子さん)は闘うようになったのか」という、前2作では(曲がりなりにも)第1話で視聴者に形成されていたシナプスが、終盤になってもなかなかできないのである。

「ウマ娘」では、異世界の競走馬の魂を持ったウマ娘たちは走ることに喜びを見出し、真剣勝負ののちはウイニングライブで健闘を称える。「ゾンサガ」では、ゾンビィたちは不慮の死で遂げられなかった「家族」「仲間」との別れを乗り越え、佐賀を救うアイドルグループ「フランシュシュ」の活動へと昇華させる。初見で「は?」となった設定を、それぞれ史実、if、そしてキャラを活かしつつ丹念に描くことで「これいる」「ここすき」に変えていく妙技が、サイゲ三原則で生まれたトンチキ設定に説得力と中毒的な没入感とを帯びさせるのだ。

確かに「冥途」においても、嵐子さんの恋を通じた1話と10話の劇的な補完など、クライマックスに導くシナリオの妙が発揮されている。武闘派メイドと不戦メイドの対立が物語の「軸っぽい」のは、序盤・中盤・終盤を通じて感じ取れる。

でも、そこを序盤で描いてほしかった

先輩メイド、ゆめちは冷徹なプロに見えて「人間やめてる」熱血ギャンブラーであり、しぃぽんは無気力に見えて我を貫きとんとことんに帰る家を見出すしたたかさが描かれる。ある意味、これらは終盤の反逆を説明する彼女たちの「行動原理」を説明した回なのかもしれない。リスクを顧みず売り上げトップの羊メイドカフェを襲撃し、嵐子となごみを救い出す仲間思いの「義理堅さ」もまた終盤の「メイド戦争」につながると言っちゃつながる。

しかし、彼女らの持ち味がそれぞれのメイン回である「違法カジノ」と「ブラック研修」というテーマにうずもれてしまっているし、(ゾーヤ登場回のボクシングとフィギュア含め)アングラに片足突っ込んだメイドビジネスとしての描写の深みはあるがヤクザ的な暴力とはブレた展開になっているのである。

「冥途はなぜ闘うようになったのか」はその後、対メイドリアン編で多数の死者を出しながらも棚上げされ、終盤に一挙に説明されることとなる。

明治期に暴力で君臨した冥途「お萌」と彼女にちなむ「お萌様登り」や60年代に冥途の頂点に君臨し、凪・嵐子の訣別のきっかけでもあった「美千代」など、物語の根幹にかかわる設定は終盤まで明らかにされない。それらを知らされず、ときに忍者、ときに黒豚にまで堕ちながらも「不戦」か「言ってることがわかりません」しか言わないなごみは「ご都合」の嫌いがあるだろう。

そう、後半に連れサイゲアニメのダークサイド、悪癖が出てくる。功罪相半ばする「天丼」だ。

サイゲアニメは性癖や王道展開の「記号」の扱いが得意である反面、ウマ娘2期の「主治医のお注射」、ゾンサガの「ゆうぎりビンタ」など、台詞回しやギャグのクリーシェを雑に詰め込む傾向にある。確かに、中毒性のあるギャグの繰り返しは安心感と体感スピードといった持ち味でもあるし、そのアニメを象徴するミームとしても強度がある。しかし、「冥途」の天丼は、物語の「軸っぽい」武闘派対不戦派メイドの構図をさらにぼやけさせてしまう。

「36歳が萌え萌えできるのか?」

嵐子さんのお誕生日回である5話から突如浮上したかのようなこのテーマは、なごみのねるらとの別れ、愛美の超新星爆発のごとき生き様を挟み、あの8話の野球回から繰り返されることとなる。ケダモノランド総帥はじめ、羊・猫・熊・牛のエースメイドたちが口々に罵倒する「36歳のメイド」「もう萌え萌えできる歳ではない」という天丼。シリアスでもコメディでもないオーバーキル、一抹の後味の悪さがある。ヤクザ映画らしいピカレスクらしさの演出なのかもしれないが、せっかくのメイドものとしての「変化球」がないな、と感じる。

仮に、凪の行動原理として明言された「戦わなければ殺される、ときには親殺しをしてでも頂点に上り詰めるハングリーさ」のほかに「不戦を貫く義姉妹への愛憎入り交じり暴走した庇護欲」のような百合要素が残っていたならば、「36歳は萌え萌えできる歳ではない」「とんとことんを皆殺しにして幹部にしてやろう」という説得にも業の深さが生まれただろう。

「裏切者の汚名を着せられたまま鉄砲玉として犬死にした」ねるら、「死に花咲かせた」愛美と「金のために生きながらえ仲間を売る」メイドリアン総帥の生き様の対比のように、終盤のエースメイドたちにも「親分たちに反感をもちながら若さを武器に刹那的に今を生きる」描写があれば、「36歳は萌え萌え・鉄砲玉できる歳ではない」という罵倒はたんなる罵倒におわらず、各々冥途たちの生き様の衝突として描かれただろう。

服役によってメイド人生に15年の空白が生まれ、改めてメイドを貫き、なごみに託していった嵐子の生き様、無念さもまた、「冥途はなぜ闘わなければならなかったのか」というテーマではあるが、駆け足とインパクト重視のストーリーテリングであっさりと描かれすぎた要素だ。(到底1話23分、まして1期では収まりきらないだろうが)それらが断片的すぎたため、最終話のオチ、36歳のニューとんとことんのメイドなごみが車いすで懸命に働く姿の業も弱まってしまった。

とまあ、サイゲアニメならではの大味さも多々あったが、「なぜ史実をガン無視して舞台は1999年だったのか?」「御徒町さんの正体は?」など、放映中の考察も楽しかったし、冥途たちのその後など謎も多く残り、2期への余韻も残る良いエンディングだったと思う(twitter連載の四コマ『冥途人生!』で補完されると思ったが、そんなことはなかった)。まだ見ぬ2期への妄想を供養(たれなが)してこのグダグダ論考を締めることとしよう。

ぼくのかんがえたさいきょうのあきばめいどせんそう2き

2018年秋葉原――
ケダモノランド総帥凪の死亡を引き金に起きた「アキバ浄化作戦」によってメイド界隈は萌えを取り戻した。なごみと元チュキチュキつきちゃんのアイツの姉妹盃によって表面上平穏が保たれていた秋葉原であったが、「魔剤」密売に手を染める大阪日本橋の凶悪武闘派メイドと在日アメリカ海兵隊メイド軍の軍事介入によってメイドたちは全滅。なごみも関西メイド総長の凶弾に斃れる。

なごみが意識を取り戻すと、1999年の秋葉原、メイドを目指して上京したまさにその日だった。嵐子との再会、そしてチュキチュキつきちゃんへのカチコミ――「史実」に抗いながら、なごみはあくまでも不戦メイドとして山岸・スーパーノヴァ・愛美との対決を迎え、アキバの正統派萌えメイドとして認められていく。

しかしながら、姉妹盃を交わしたはずのねるらとは、馴染客・赤井をめぐり訣別。ねるらはメイドリアンとケダモノランドの対等合併に危惧を抱く日本橋の過激派武闘派冥途集団の内通者となってしまう。そして合併を記念したお萌様登りの日、悲劇が起こる。

避けられない暴力(エントロピー)の連鎖。絶望したなごみが最終的に頼ったのは謹慎により隠居同然のメイド・愛美であった。彼女が狂信した「アキバビッグバン」――(メイドリアン先代がアインシュタインとの邂逅によって会得したといわれる)時間を遡行しつづけ、親殺しを重ねることによりすべてのメイドを絶縁する「冥途因果律の破れ」理論を実証するため、なごみは60年代の伝説冥途「美千代」、そして明治の伝説冥途「お萌」と対決するが……?

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