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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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2021年5月の記事一覧

こう在りたかった姿を、今、想い描き、それを創造していく

創造は、想像から始まる。何かをする、ということは創造するということ。思い(想像)という「無」のものを現実の「有」のものにすること。即ち「創造」。地球は、人類の想像(意識)で創造されている。そして、それは「生成化育」。生みの苦しみを経、形あるものに成り、変化、改善を重ねながら、育っていく。そのような仕組みの上に、生命は生きている。しかし、「想像」は、人間にしか与えられていないもの。人間、一人ひとりの個性によって、多様な想像が生まれ、それが対立し、溶け合い、成長し続けている。その

無理に導こうとしていないか

身近な大切な人と、心からシミジミと話しをする機会を、時間を、どれだけ持っているか。相手の話を全身全霊で聴けているか。いい加減に聞くふりをしていないか。自分ばかりが話をしていないか。途中で話を遮っていないか。いつも相手の話を否定的に聞いていないか。素直に、謙虚に向き合っているか。そして、相手のことをどれだけ分かっているか。相手も己の人生を生きている。そばに誰がいようと、自分自身の人生。相手を変えようとしたり、無理に導こうとしていないか。正直に自分の思いを伝えられているか。本物の

「感謝」の本当の意味

有って当たり前の世界。そのようなものは存在しない。自然に出来た、と人は言うけれど、それは本当か?自然にとは何か?沸いてきたとでも言いたいのか?自然の何を知っているというのか。有って当たり前の世界という捉え方しか出来ないから、真剣に知りたいという思いも沸かない。不思議さを不思議だとさえ捉えられない。日常を見よ。どうして喉が渇くのか。どうして朝になると目が覚めるのか。どうして目は二つあるのか。どうして毎日お腹がすき、排泄をもよおすのか。どうして、太陽が昇り、世が明けるのか。どうし

地球は生きている

地球は生きている。地球も生き物なのである。地球の表面は静寂。土、水、空気、太陽の光、緑の木々植物たちが淀みなく循環して休むことなく動いている。地球も生命体。だから、大地をえぐり傷つけられたり、空気や水を汚されたりすることに苦しんでいる。自然の痛みを分かっていく。地球の痛みを感じ取って傷めないようにしていく。人間は、むしろよく循環するようにさりげなくお世話をしていく。人間も地球の一部。地球と一体となって、動きの中で、共々が生かされながら生きていく。人間も生き物。どんなものも全て

地軸が狂っている

46億年という歳月を積み重ねて創られてきた地球は、現在、意志、想いに反する状態になっている。現代の人間という種が、この僅か数百年の間に、地球を改変してしまっている。従って、創り直す(元の状態に戻す)必要が出てきた。事実、近年の地殻変動によって、地軸が狂っている(既に現代科学でもその変化を数値で認識している)。そのことが発端となり、気候変動が起きている。自然の法則は、すべて「生成化育」にある。産みの苦しみを経て一つの形付けが出来る。そして、変化しながら、育っていく。地球は、未だ

見える限界から先にあるもの

目に見えずとも、現実に存在しているものがある。人間は、それを見て捉えることが出来なければ、存在しないものとみなしてしまう。何と浅はかな。それだけの感性しかない人類の未来は暗い。見えないものを捉え、感じることが出来る感性を持ってすれば、真理を掴む近道となる。見える限界から先にあるもの。理屈ではなく、事実そこに在る。在るから影響を受けることになる。空気は見えないがそこに在る。在るから人間は、生きていられる。水蒸気や昼間の星、夜の太陽もしかり。科学や化学には限界がある。そのレベルは

「感動」の力

「感動」というものが一大転換をもたらす。喜びと感激が混合する時、人は感涙に噎ぶ。人間として最高の喜びの世界。心が震え、涙が溢れだす。涙は、無色透明。濁りがない。だから涙には、力がある。常識では計り知れない力。問答無用の力があるということ。科学では解明できない世界。科学が見えない世界を造っているのではない。「感動」がもたらすもの。人は「感動」によって覚醒する。人は「感動」によって思い出す。涙はその証明。真実が分かった時、それも即ち悟り。「感動」の瞬間を大切にすること。真の「感動

人間は、発光体

人間は、発光体である。本来は、光り輝く存在。人間の目には見えずとも、放たれる光は、見えている。多くの魂が宿る世界において、光り輝くことが出来る者は、引き立てられる。しかし、多くがそうではない実態がある。なぜか。人間は、そもそも未熟者であり、やり直し人生の中で、この世に存在の機会を得た立場。何もしなければ、光りを放ち輝くどころか、曇り、闇の中に埋もれてしまう。そのような状態のままでは、この生涯も引き立てに合うことはない。では、どうすれば人間は、輝けるのか。前提として、そもそも人

「水」がおかしくなったら、終わりの始まり。

「水」がおかしくなったら、終わりの始まり。そう言われて30余年。「水」は、確実におかしくなっている。極度に荒れ、汚れ、廃れている。これは地球に限界が来たということを意味している。最後に、人類がどれだけのことができるか。これに掛かっている。人間以外の生物たちが、人間の変革に固唾を呑んで見守っている。人類は、「水」を人間のエゴのために消費し汚している。生きるために最も必要な「水」を、機械(半導体)や衣服や、アルミニウムの精製のために、食肉用の家畜の餌となる大豆やトウモロコシなどに

哲学は堂々巡り

学問にも裏と表がある。表の学問は、人間が作ったもの。科学も同じ。人間の目で探究し、形にしたもの。長い人類の歴史の中で、紡ぎ出されてきた知識には、人間の経験に基づくものもあれば、想像の世界のものもある。時に、人間のエゴにより形となったものも紛れ込んでしまっている。その中から真実をあぶりだすことは、極めて難しい。特に哲学。常に途中で行き詰まり、堂々巡りとなってしまう。なぜか。哲学は、真理が解明された世界ではないからである。学問には、裏の学問がある。科学にも裏がある。即ち、見えない

全て一時預かりもの

あらゆる財産(地球の財産、世界の財産、国の財産、地域の財産、会社の財産、人の財産・・・)は、全て一時預かりもの。預かっている者は、その管理運営を一時的に任されているだけ。その管理運営を間違えれば、一瞬のうちに消滅する。人も死を迎えれば、一代で築いたとする財産もあの世に持っていくことは出来ない。ただ置いていくだけ。そして、あの世で、その財産をどのように扱ったかが問われる。持つものが大きい者は、責任も最大。その財産を、世のため、人のためにどれだけ活かせたかが問われる。単に労せずし

分かっている心算では用を足さない

人間でありながら、人間自身のことが良く分かっていない。地球に住まわせてもらっていながら、地球のことが良く分かっていない。自分自身の人生なのに、何の為の人生か、なぜ生きていいるのかが分かっていない。分かっていないのに、人生の大海原を乗り切ろうたって、初めから無理がある。無理は「理」が無いこと。あっちこっち迷うだけ。迷えば無駄が多くなる。無駄人生にするかしないかは、自分次第。だから「理」を学ぶ。人間や地球のことを知る。この存在の営み、存続の仕組み、生命維持のためのシステムを誰がど

何の為にそれをやっているのか?

それを何の為にやるのか。何の為にやっているのか。目的は何か?人間は、この問いが大事。「何の為」が、自分なのか、人なのか、社会なのか、地球なのか。自身の欲望の為だけの希求だとしたら、結果は見えている。プライド、自意識、私は何も悪くはない、そんなことをした覚えはない、そのように自分は常に絶対的であり、認め難い。しかし、ここが運の分かれ目。自己欲求にまみれた生き方は、意識だけの上でも全て記録され、いずれ咎められる。人間の一生は長い。今、素直に物事を見つめられたなら、それを何の為にや

生きる力をつけよ

生きる力をつけよ。人生には多くの試練が待っている。試練は、人生の糧。成長の源。救いと試練とは、表裏一体の関係にあることを忘れないこと。生きる力とは、物金の話ではない。この世の本当の仕組み、真理、実相への理解をつけ、清く生きることにある。そのことが基礎となり、この世に生まれてきた意味への理解と、一人ひとりが成し遂げるべく役割を思い出し、やり遂げることが出来る。基礎は、試練から生まれる。試練を避けてはいけない。なぜならば、克服出来ない試練は与えられない。本人が出来ないと思っていて