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愚昧な人類と、その幸せ〜上田岳弘『太陽』感想〜

既に人々が経験していないものは終末だけとなった。

とてつもない作品である。
正直なところ、本作は簡単にレビューするには余りに深い。
このような作品は滅多にあるものではない。
だからこそゆっくり考えて読んでいくことにしよう。

本作は、『太陽』と題されてはいるが、人類の終末を描いている。それも、その終末は映画『アルマゲドン』のように英雄が土壇場で回避するのでもなければ、人類の叡智を結集するのでもない。人類は後述する第三形態に至り、言わば必然的に終末を渇望するのだ。

作中で、今の私たちの生の営み方は、『第一形態』と呼称される。明確に語られないけれども、第二形態では人々はその「個体」性を基礎付ける容姿や内面などのパラメータから解放され、個人と全体の区別がない。というのも、人を人と指し示す条件がなくなってしまったからだ。
今の私たちの苦しみや、もっと言えば幸せの根拠である、「生まれた条件は変えられない」という事実。それすらも破壊され、人類は淡々とチェックリストをこなす日々を過ごしている。それを通じて、人類は「全人類の平等」を達成している。

まずは人生で経験されること全てがチェックポイントとして網羅され、全員がそれらを消化することで、希望も絶望も、喜びも悲しみも、その他あらゆる心の揺らぎも含めその全てが等価なものとして実践される。

そのような局面では思想は共有され、もっといえば自他の区別なく「まぁそれはそれでいいか」という無責任な感覚で世界は流転していく。もっと言えば、自分=他人であれば、他人の生き死にに責任を持つ主体はいなくなる。自己の生を司るのも自分であれば、他人の生、ひいては社会全体の命運も「個人の思いつき」や戯言で決せられてもおかしくない。これは、極めて論理的な帰結と言える。

田山ミシェルの言う通り人類は一人残らず死んでしまうことになるかもしれないが、総意としてそれはそれでいいかということになったのだ。

人類が終末を迎えるプロジェクトは「大錬金」と呼ばれる。太陽の核融合を促進し、あるいは止めることで金の塊へと変える。プロジェクトの概要はそれだけであるが、何ともあっけない。
それになんの意味があるのか。人類の命運を賭けるに値するのか。そう問われても、そもそも、偶然性を剥奪された人類にとっては、どうなるかわからない偶然性そのもののプロジェクトしか、最早生きがい・死にがいを見出せないのだ。

本作には主人公はいない。大学教授の春日晴臣、デリヘル嬢の高橋塔子、赤ちゃん工場で財をなすドンゴ•ディオンム、フランスでキティちゃんのバッタもんを売るトニー•セイジ、調査団の面々、そして大錬金の生みの親である田山ミシェル。誰もがみな、恐ろしい速度で目の前を通り過ぎる。そこには感慨もなく、感傷もない。
神の視点(神という存在すら、第三形態にはないだろうが、敢えて一般名詞として使おう)だけがするすると、人類の終末へと読者を誘う。

神ならざる私たちには、日々の暮らしにuniquenessを感じることができる。凡ゆる可能性を視野に入れれば、起きている事象は、あり得る出来事の一つに面影を変える。その時に、人はそれを喜ぶことはできないだろう。現在という一点からでしか、そして複数の局面を同時に体験できない『機械』に過ぎない私たちには、絶対にその運命論は見出せないからこそ、逆説的に運命的だと色めき立つことができる。視野が狭く、愚昧であるゆえの幸せ。
第二形態には、主観的な妄想でしかない、「幸せ」はあり得ない。

本作に見られる強烈な特異性は、その発散と収束、そして奇怪な未来とそこに荒々しく接続される「現在」にある。未来は現在のヒストリカルな点をプロットし、それを線形補完した直線上には断じてない。けれども、「第一形態体験装置」で田山ミシェルが2013年の新宿で同窓会を追体験するように、過去(我々から見た「現在」)を懐かしむという形で、イカれた未来と我々の現在が乱暴に接続される。現実が、作中の未来と無理やり繋がりを持たされる。

そうして現在に接続されてしまった未来が、最期あっけなく終わりを迎える。
私たちの目の前で。たった文庫本の半分の分量で。このあっけなさは恐ろしい。本気で対峙するならば、狂ってしまうほど、全てが無価値に感じるほどの、暴力性をこの作品は宿している。
この作品を読んで、そして少し経って平然と日々を過ごせるならば、それは私たちが神ではなく「愚昧な」「第一形態の」人類であるからに他ならない。
曖昧な誤解で幸せを感じられるほど、愚かであるからに過ぎない。

それでも、そうであればこそ、こうして生きていられるのだ

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