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リチャードジュエルを見て。

私はやりたい100のことの中にクリント・イーストウッドに会うがあるほど彼の作品が好きだ。特に好きなのは「グラントリノ」。小学生の頃に初めて見た時は果てしない衝撃を受けた。大体どんなことがあろうとも主人公は死なないものだ、とたかを括っていた小学3年生の私を衝撃のラストが打ちのめした。グラントリノ、運び屋など彼が作る作品の淡々とした物語としての平坦さが私の心に刺さって存在を感じさせてくる。

人間とは恐ろしいものだ。というのがリチャードジュエルを見て感じたことだ。物語の内容としてはリチャードという少し鈍臭い男が大勢を救ったことでその事件の容疑者にされてしまう、さてどうするという逆転劇を描いたものである。しかし、作中で描かれるのはただの勧善懲悪ではない。

理想を疑わないリチャード。事実かも確認せず大衆を煽るメディア。権力に傲慢になり杜撰な捜査をするFBI。どれもこれもどの国にもどの地域にも存在するもの。そのどこにでもあるという普遍さがクリントによって淡々と描かれることによってさらに際立ったように感じる。

リチャードは並々ならぬ正義感でルールに従って動く、私はその正義感がまず恐ろしかった。国や警察が正しいと、正しいことをするはずだという考え方が私はひどく危険なものだと感じた。人を信じるというのは過剰になれば過剰になる程危険なものでとくにその信じる対象が不安定であればあるほど危険性は増す。

次に作品内でもフォーカスされたメディアの恐ろしさ。確かな情報なのか確かめることもせず世界に情報を発することが人を傷つけることは周知の事実ではある。が、しかしこれも現代社会において重要な問題である。

しかし私が特に興味を持ったのはメディアとの付き合い方云々ではなく容姿で判断する社会やマイノリティとしての生き方である。

リチャードはかなり膨よかな体型をしている。ビール瓶を投げている青年たちを注意した時も脂肪と呼ばれたり追いつけるのか?と侮辱されていた。
もし彼が作品に出てきた他の警察官のように身長が高く筋肉質であれば事件の容疑者にはされなかったのではないか、と私は考えてしまう。
体型や容姿がその人物を判断する材料として役に立つことは否定できない。
しかし容姿や体型が事件の容疑者であるという根拠の一つになってしまうことが世界に蔓延るルッキズムを表しているなと私は感じた。

そしてリチャードは己がホモだと判断されることをかなり嫌った。彼の友人と彼が恋人関係であるされることを何回も何回も否定した。自分のセクシャリティについて誤解が生まれるのはいいことではないがあそこまで避ける必要はあったのだろうかと感じた。
そこの表現を入れてくるあたりが私がクリント・イーストウッドの作品は好きでもクリント・イーストウッドを好きになれない理由の一つだろう。

そしてラスト、彼が捜査の対象人物ではなくなったことをしらす書類を渡されるシーン。周りの人々は彼がリチャードジュエルであるということを全く意識してないように見える。人の噂も七十五日とはまさしくこのことだと少し笑ってしまった。