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多様性と共感について


私たちは、時々矛盾したことを求める。

今日はその中での「多様性」の話。

最近の時代の流れは「多様性を尊重しよう指向」だ。

決めつけは良くない。
偏見は良くない。
先入観は良くない。
差別は良くない。

『私と小鳥と鈴と』で金子みすゞが言ったように、
きっと「みんなちがって、みんないい」が、
前にも増して求められているこれからの世界。


もしも誰かが、
「あなたの考えは私と違うから間違っている」
とでも言おうものなら、一発炎上、即アウトだろう。

「自分と違う人は間違っている」だなんて、
そりゃもう説明の必要がないほどに
よろしくない(現代にそぐわない)考え方でしょう。

双方の考え方はそれぞれに正しく、
お互いに尊重されるべきものだから。

そんな世界に「絶対的な間違い」など存在しない。
(あくまでも、思想に限った話ではあるが。)

無知の知が必要だ、とはよく言ったものです。

話を戻します。


つまるところ、私たちは現代において、
みんなちがって、みんないいが良いものだと考えている。
(ような気がしている。)

本心がどうあれ、それが世の中で求められる
「スタンダード」であると知っている。

だから、私たちは同時に知っているはずだ。

「完璧な共感など存在しないこと」を。

当然だろう、皆違うのだから。
自分とは違う人間の考えを100%理解するなんて不可能だ。

だからこそ、少しでも相手の気持ちを汲み取るために、
相手の言葉に耳を傾ける。

「ふんふん、なるほどね。」
「あなたはそう思うのね、わかったわ。」
「私はこう思うかな。」

みんなちがって、みんないいの思想が正しいならば、
私たちに求められるコミュニケーションはここまでだろう。


しかし、人は「共感を求める」。

「私もそう思ってたの!私たち同じ考え方だね!」
「ほんとそれ!わかるわ~」

なーんて会話、しちゃったりして。

ちょっとそんなこと言われたら嬉しかったりして。

みんなちがって、みんないい って
言ってたくせに。

どういうわけか、私たちは「自分と同じ考え方を持つ人」を好む。

そりゃ同じ考えの人間が二人居るのは楽なことだろう。

一緒に居るならなおさら、
喧嘩なんて起きなくてラッキーかもしれない。

でも本当は、
同じように見えているようで本当は、
私たちは確実に違っている。

全く同じ考え方なんて、クローン以外有り得ない。

だとしたら、
この「同じように見えるが実は似ているだけ関係」は
とっても危ういものなのではないだろうか。

「私と彼は同じだと思っていたから」

そう考えてしまうことによって、
彼の本音は見えなくなってしまう。

ズレが一つ生じてしまえば、
その後はもう、まるでドミノのようにズレが連鎖する。

「一緒だと思ってたのにどうして!?」

なんて言っちゃう結末にまっしぐらだろう。


本当はみんな一人一人ちがう。

わかっているのにどうして、
人は共感が嬉しいのだろう。

わかっているのにどうして、
人は共感を求めるのだろう。

共感をくれた相手が、
自分のことを完璧に理解してくれることなど、
ありえないのに。

どうしてだろう。


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