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#33...イライラについて考える

はじめに

コロナもだいぶ落ち着いて、はや1年くらい経過したのでは?
通勤の電車も人が増えて、かつてのように隣の人と接触するくらいの距離感が戻ってきた。
そうなると、やはり気になるのが乗車してる人たちのマナー。
ラッシュ時に、ドア付近で頑なに自分の場所を確保する人や、待ってる列を横から割り込んで、我先に空いてる席を取りに行く人。
そういう人に出会う機会が増えたと思う。

マナーが悪い人に遭遇したとき

自分の気持ちは、まず間違いなく『イラッ!』となってる。
『周りの人のことを考えて行動しよう?そうやって若者の手本になろうよ。』
そんな正義感じみた気持ちも芽生えている。
結果、自分の中で、勧善懲悪の形になり、自分の『イラッ』という気持ちを正当化しているのではないか。
世の中で、SNSを通じて拡散されるマナー違反や、勧善懲悪系の情報はきっとそういう心理的な動きから来ているものも少なからずあるんじゃなかろうか。
それは正しい気持ち、正しい対応なんだろうか?
結果、勧善懲悪の気持ちで自分の内面を整理したとして、でも相手に対するモヤモヤや、イライラは無くならない。
いずれ、謝罪を受け入れる日が来たとして、それを自分は求めてたのだろうか?
何のために自分はイライラしたんだろう?と思う。

心の動きは何かの合図か?

普段、心に余裕があるときは、多少のマナー違反にはイライラしないと思う。
でも、自分が疲れてるとき、余裕がないときは、目を瞑れなくなる。
そう考えたら、勧善懲悪のつもりで指摘してることって、ただの自分の気持ちの捌け口なだけだな、と思う。
要は、イライラするのは『自分に余裕がないことのシグナル』であって、それを他人にぶつけるよりも、サッサと休んで余裕を取り戻せるようにした方がいいのではないか?
はたまた、同族嫌悪という言葉があるように、イライラする相手には、自分と同じ性質を感じているのかもしれない。
自分も面倒くさいときには、乗降口のドアの前で頑なに留まったり、疲れてる時は我先に席を取りに行ったりしてないか?
ということは、人の振り見て我が振り直せというように、自分の悪い側面に気づくきっかけなのかもしれない。
イライラすることは、外に出すものではなくて、自分の内に目を向けるためのきっかけ、合図なんだろう。

おわりに

人と人が少しずつお互いに寛容さが持てるように、まずは自分からイライラしたときには外に出さずに内面と向き合えるようになりたいと思う。

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