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ページ19 お金と仕事の分離

大学進学はやめて就職を選んだ。進学が9割の学校で求人の条件は良かった。就職担当の先生には学内選考でほとんど決まると言われた。就職する生徒の人数が極端に少ないのでよりどりみどり。学校側の内申書は非常に好意的だったと思う。『就職した会社から今後も求人があるかどうかは卒業生たちの会社での素行で決まる。最低3年間は後輩の為に辞めないで欲しい』と強く言われた。一応就職試験に臨むとはいえほとんど学内選考で決まる意味がわかった。消極的な理由で選んだ学校だったし、学校生活においても決して良い生徒では無かったが結果的に学校から大きな恩恵を受けた。先輩たちに感謝したし、後輩の為にも3年間は辞めないと誓った。

就職したのは一部上場企業で日本を代表する電機メーカーだった。同期入社は300人。ひと月の研修期間後一般事務職として配属された。

私の仕事は課内の庶務、雑務、そして納品伝表の作成・・・全て手作業の時代。昭和57年(1982年)をまるで100年前みたいに感じる。

配属されてみると今までアルバイトとして働いていたことは私にとっては仕事では無かったと気付いた。配属先の先輩社員たちの仕事は一年や二年でモノになるようなものじゃないとすぐにわかった。高卒の私は1ヶ月の研修で配属されたが同期入社の大卒は一年間の研修を受けてから配属される。会社は期待している大卒生には一年間も学ばせてから仕事に就かせるということだ。

私の父は大工の棟梁だったので、職人を育てていた。中卒、高卒いろんな人がいたが、よく「あいつはまだダイハチだ」というジョークをとばしていた。大工をダイ9と文字った言葉で9の前の8。まだ一人前じゃないということ。その言葉の意味を目の当たりにした。

職場の人たちは皆、自分の仕事に誇りを持ち、仕事を成功させる為に同僚とも上手くやろうと努力していた。物事が白黒だけでは割り切れないこと、一見理不尽に思える指示にも深い意味があること。大きな仕事を成すためには沢山の人の協力が必要なこと。本当に目から鱗が落ち、世界が一変するように感じる事ばかりだった。

私の職場は20〜30人の男性に対して女子社員が一人のような比率で、女子社員は結婚するまで務める男性の補助職員という位置付けだった。私は彼らの仕事のお手伝いをすることを誇りに思っていた。彼らが仕事をしている姿がとてもカッコ良くて尊敬していたからだった。

就職したことで私の父に対する見方は180度変わった。父の凄さをやっとわかった。お金に関することが上手く出来ないだけで職人としての腕は素晴らしかったのだ。それをサポートすることなく愚痴ばかりの母の世間知らずさやその向き合い方、特に我が家にお金が無い責任が全て父にあると私に思わせたことに気づいた。それからの私は母親を酷く軽蔑するようになった。母が会社勤めをしたことが無いことも軽蔑のポイントだった。専業主婦、喫茶店の経営、そしてコンビニの店長と決して狭い世界にいた訳でもないのに何故あれほど視野が狭かったのかが理解できなかった。私は母親のような女になりたくないと強く思うようになった。それは色々ありながらも私が母を絶対的な存在として敬愛していたからだと思う。そしてその強い思いが反転して憎しみに近い状態になったのだと思う。

私は結婚せずに仕事をする道を選ぼうと思うようになった。いつか男たちと肩を並べて補助ではなくプロジェクトの本筋に参加したい。入社2年目から課長に掛け合って社内の研修などに積極的に参加するようになった。入社の初年度の夏のボーナスは給料の二ヶ月分を超えていた。もちろん給料は毎月キチンと振り込まれた。福利厚生も充実していて、まだ仕事らしいことの出来ていない自分には身に余る待遇だと感じていた。

給料がキチンと振り込まれることを当たり前だと思わなかったのは、両親が毎月の資金繰りに苦労する姿を見ていたからだ。それに就職してから父に『給料以上に働け』『会社が儲からないと給料は出ない』と給料日のたびに言われたこともしっかりと心に届いていた。母には食費だけしか渡さなかったからお小遣いも十分使えた。

待遇に感謝していた私も半年も経つと給料が毎月振り込まれる事が当たり前だと思うようになった。お金のために仕事をしているという感覚が無くなった。