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精一杯のガトーショコラ【かねこの食べもの自由帳】

 ドライブが好きで、よく目的を決めずに適当な道を適当に走ることがあります。行ったことのない道にわざと入って、なんとなく進むうちに「あ、ここに出るのか」と自分の中の地図が繋がっていく感覚が気持ちよくて、疾走感よりも好奇心に駆り立てられているのかもしれません。

 そんなことをしていると、時たま気になるお店に出会うことがあります。

 よく走る、長井方面に向かう道のひとつは、

山肌に大きな岩が見え隠れする谷間を縫うような細い道です。うねりも多く、大きな蛇の頭に乗ったような気分になります。

 民家も商店も少ないこの道沿いに、ちょこんと白い建物が現れます。それまでも夜中店の前をよく通っていたので、カフェか何かなのだろうとは思っていたのでした。

 この頃の僕は、「行きつけのカッフェーでも持っていたらカッコいいんじゃないだろうか」と考えていました。そういうところがダサいわけですが。そこで目をつけたのがこのお店です。「焙煎所ってくらいだから、きっとコーヒーの店だろう、豆しか売っていなかったらその時は自分で淹れてみよう」。それだけ決めて、ワクワク感に前のめりになりながら車を走らせました。

 初めてのカフェ訪問に力が入っていたのか、扉を勢いよく開け過ぎます。店内には、年季の入った輸入物っぽい雑貨や、気泡が輝くとろけたようなランプシェード、見ただけでマフッと柔らかいことがわかる一人がけのソファーなどが、何気ない自然な雰囲気で置かれていました。

 自分は場違いではないか。つま先に力が入るるのがわかります。

「いらっしゃいませ」と優しい笑顔の男性が静かに言います。一人で来たことを伝えると、奥からまた「こちらにどうぞ」と力みのない凛とした雰囲気の女性が店内の真ん中にある二人がけのテーブルに案内してくれました。

 自然体の二人に対して僕はと言うと、ガッチガチに緊張をしていて、きっと顔が引きつっていたと思います。さぞ怪しい客だったことでしょう。

「ご夫婦かな。夫婦でこんな素敵なお店やってるのか」と、この時点で「直感で良い店を選んだ自分」に満足してしまいそうになりつつも、いやいやコーヒーを飲みに来たんだと思い直して店内の様子を見てみると、やはりレジ横にコーヒー豆の販売コーナーがありました。種類は三つ。グラム数を選べるようです。

「せっかくだから豆も買って帰ろう。美味しく淹れられたらまた来る口実になるしな」と自分と相談しながら財布の中身を確認します。

 全財産四〇〇円。

 いやいやいや、慌てるな。豆が買えなくなっただけだよ。また買いにくればいい。呼吸を整えていると、奥さんがどうぞとメニューを持ってきてくれました。色んな豆があるんだなーとメニューをめくれどめくれど、どれも一杯五〇〇円。どんどん身体が熱くなっていきます。値段が高いんじゃない、武器も持たずに戦地に来た僕が悪い。どうする。何も注文せずに帰るか?いやそんなことしたら次絶対来られなくなる。それはダメだ。じゃー別のものを頼むか。焙煎所でコーヒー飲まないの?周りのお客さんはみんな美味しそうにコーヒー飲んでる。いいなー。でも僕には飲めない。どうしよう、どうしよう。

「ご注文はお決まりですか?」

「ガトーショコラを1つ」

「お飲み物は?」

「ガトーショコラだけで」

「はい、ありがとうございます」

 言ったんです。ガトーショコラだけでって言ったんです。唯一頼めたのがこれだけだったんです。今日だけ無類の甘党になろうと決意して、奥さんが注文聞きに来るまで心の中

で練習してました。奥さんの目は見られません。カウンターに背を向ける席で良かった。旦那さんの目線がどんなか見られたものじゃない。

 運ばれてきたガトーショコラは、甘すぎずちょっと苦味がある感じで、男性にも食べやすい味でした。しっとりとした生地がさぞコーヒーに合うだろうなと、自分を責めながらあっという間に平らげて、席からジャキンと垂直に立ち上がって会計を済ませ、お二人の「ありがとうございました」の声に心の中で「誠に申し訳ございませんでした」を重ねながら、蛇の道を逃げ帰りました。そんなふうに、僕の初カフェは完全敗北で幕を閉じたのでした。

 それから間を空けて、何度も通うようになり、その間様々な小さな出来事を挟んで、お二人と楽しくお話が出来るようになった頃、自分が初めてこの焙煎所に来たときの慌てっぷりを伝えると、

「ケーキだけの人も結構いるから気にしなくてよかったのに。多分その時何も思ってなかったと思うよ」

と笑っておっしゃっていただけて、憑き物が落ちたような気がしました。この間お店の十周年にお邪魔した時は、「金子くんがガトーショコラ食べてた日からもう八年だよ。早いねー」と奥さんがからっと笑いながら言っていましたが、嬉しい反面出会いの目印カッコ悪すぎます。

 今思えば、動機はどうあれいい背伸びをしたなと思えます。昔みたいに頻繁には通えなくなってしまいましたが、これからもお邪魔したい大好きなお店です。

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