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舌巻く舌の日【かねこの食べもの自由帳】

 家庭によって食事に関するルールや定番は違うもんです。結婚して、妻が洗った箸の口に入る方を上にして箸立てに入れていた時、愕然としました。気にしたこともありませんでしたが、確かに箸立て自体を洗った記憶がない。ホコリが入れば汚くなるよね。だから逆さまなのね。と納得して我が家では「箸は逆さまで立てる」が採用されています。

 こういった家庭での独自ルールは何かなかったかなと考えてみると、実家では普段の夕食の時は個別配膳が基本でした。我が家は飯を無尽蔵に食う、男三兄弟を有する家庭です。

 次男を壊れないおもちゃと思っている兄、上二人の兄を上手いこと乗りこなす人たらしの弟、上にも下にもナメられたくない真ん中の僕、そんな三人が同じ食卓、同じ大皿でおかずを取り合えば、間違いなく戦争になります。年齢差があるせいで兄に苦渋を飲まされ続けた結果、この戦争に勝つために僕が考案したのが、熱くても気にしないという食べ方です。揚げたての唐揚げでも気にせずムシャムシャ食べれば、冷ますタイムロスを犯す事なく、たくさん食べることが出来ます。

 この技を獲得してからは、僕が食べ過ぎて兄が怒り、長い物に巻かれて弟も怒り、早く食わない奴が悪いと僕が怒るという流れで喧嘩が発生するのが常でした。我ながら醜い食い意地です。そんな状況を見かねて、母ちゃんが導入したのが、個別配膳です。見た目というのは大事です。実は台所にたくさんおかわりがあっても、食卓に全員平等に同数を別皿に盛られていると、ケンカが起こりません。なまじ沢山あるように見えるから必死で食べてしまう訳です。母ちゃんの妙案で平和な世界が訪れました。

 その日は父ちゃんが不在で、母ちゃんと三兄弟だけでの夕食が事前に知らされていました。単身赴任が常だったので、父ちゃんがいないことはよくある事ではありましたが、その日の母ちゃんは様子がおかしかったんです。

 仕事から帰った母ちゃんの手にはスーパーのビニール袋。外見から大きな食品トレイがいくつか重なって入っているのがわかります。

「今日はパーティーだよ」

 母ちゃんはそう一言つぶやき、ビニール袋を食卓にドスンと置き、無言で重そうに家族五人用の大きなホットプレートを持ってきました。

 何だ何だと群がる腹ペコの3人は目を疑います。ビニール袋からゆっくりと出てくる、牛タン、牛タン、牛タン。薄切りのまん丸で大きな牛タンが大量に現れ、息子たちは言葉になりません。ど平日の、何の記念日でもなく、父がいない、今日のこの日にこのラインナップはどういうことだ。しかも牛タンなんて焼肉屋さんに行ったときに、尊く頂く貴重な肉じゃないか、それが、こんなに、絶対に変だ。

「どうしたの?なんで?」と言うと、母ちゃんは「そういう気分だったんだよ。ダメ?」

ダメじゃない。全然ダメじゃない。全然答えになってない。いや、とにかく早く食おう。うん、早く食おう。あまりに確信の見えない簡単な答えに、考えるのをやめた三兄弟は一気に色めき立ちました。そそくさと三人で手分けして取り皿、飲み物、そして一番大事な白飯を持ってそれぞれの席に着きます。到達すべきゴールが一緒の時の兄弟の連携は円滑です。三人ともに頭の中は牛タンでいっぱいだったことでしょう。食卓も気持ちも準備整いました。

「ちょっと待って」

 唐突なステイにいつもならブーブー文句を言う僕らも、この日の母ちゃんには口答えしません。この牛タンパーティーの主催は母ちゃんであり、逆らってはいけないと各々感じ取っていた様に思います。生の牛タンを宝石でも見るかのように眺めている僕らの後ろで、トントントントンと小気味いい包丁の音がなっていました。戻ってきた母ちゃんがテーブルに置いたのはどんぶり一杯刻まれた万能ネギ。一瞬でこれをどうするか理解した僕らはおぉーっと叫んでいました。

 温まったホットプレートにキッチンペーパーで薄く油を引いて、母ちゃんが一枚一枚丁寧に並べていきます。一枚ごとにジュスーッと音が増えていくのに興奮しました。肉の輪唱です。僕らは固唾を飲んで見守ります。そしてホットプレートが一面牛タンで埋まったら、手早く全て裏返していきます。脂の焼ける匂いがしてきたら粗挽きの味塩コショウを振りかけて、食べごろ直前で鷲掴みにした万能ネギを牛タンの上にどっさり振り撒きます。夢の景色でした。

 箸を持つ手が震える三兄弟。パドックに入った競走馬のように走り出す準備は万全です。手についたネギをパンパンと払って「はい、いいよ」と母ちゃんの号令と同時に白飯を皿代わりに持って、各々の箸が我先にホットプレートめがけて飛んでいきます。なんの遠慮もなく牛タンを束で取って食べれるあの喜び。肉が主食で白米がオカズくらいの圧倒的肉。シャキッと生の香りが強いところと、溶け出た肉の脂でしんなり甘くなったところ、二つの顔を持つ万能ネギのお陰で箸が止まりません。

 いつもだったら、やれ「俺が焼いてた肉だ」だの、「お前ばっかりその肉食い過ぎだ」だの喧嘩が起きますが、一種類の肉が大量にあるわけで、喧嘩のしようがありません。三人とも黙々と牛タンと白飯を口に運びます。あっという間にすっからかん。台所から運ばれてきた第二陣も全く同じもの。それでも全然飽きません。あんまり頬張りすぎて顎が痛くなりました。

 一方母は小皿に自分の分を取って、缶からグラスに注いだビールを飲みながら血眼の僕らを笑ってながめていました。「残さず全部食ってね」と母に言われるまでもなく、全て平らげ腹がはち切れそうになりました。

 あれから幾度となく、あのパーティーの開催をねだっても実現することはありませんでした。お陰でくっきりと記憶が残っています。

 先日、約二◯年ぶりにあの日のことを聞いてみましたが、「あんたは、なんでそんなことばっかり覚えてんの?忘れたよそんなの、そんなことあったっけ?」という答えが返ってきました。あんなに興奮したのに、素敵な思い出なのに。やはり家族の中で一番食い意地を張っているのは自分なんだなと、不満をはらみつつ再確認しました。

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