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「ねぎらう」って、なんだ?

「ねぎらい」は

「行動」に対して、ねぎらうもの、
だと捉えてしまうと、
途端に難しくなる。



「行動」できていないことも
多いから、一般的に。



「あいつ、さぼってんじゃね?」
って思っちゃったら、

途端にねぎらいなんか、できなくなります。



でも、「ねぎらい」を、

「感情」や
「心の動き」といった、

目には見えないものに対して行うものだとしたら、

少し意味合いが、違ってきます。


「辛かったよね」

「苦しかったね」

「いま、どれほど、悔しい想いをしてるか、
想像さえできません」
↑西野監督へのねぎらい、たとえば。


これも、「ねぎらう」ということ。


たとえ、目には見えなくても、

今そこにある「感情」に寄り添い、

少しでも分かち合おうという気持ちで、
関わること。。



「よく、やったな」

その言葉の奥には、



よく我慢したな


よく、しんどいなか
乗り越えたな


苦しいかっただろうに、、、
頭が下がる。。



哀しかったな、
辛かったな。。。。


一瞬立ち止まって、

そんな「感情」を、見つめて、
ねぎらうこと。


それができる人が増えていったら、

誰かの苦しさしんどさ哀しみを、
一人で抱え込む必要は、
きっとなくなる。






どうか、
見て見ぬふりだけは、
しないであげてほしい。


気づいているのに、気づかないふりは、
その分、罪深い。


「辛いと思うけどさ、
それって、本人の問題だし」


こんなところだけ、
個人主義?


その感情さえも、
個人の責任、だといい放つのなら、


「感情」の生き物である人間は、

ますます孤独になるだけ。


孤独は、悪いことではないけど、


苦しい感情は、
一人では乗り越えられないことも多いから。


いま、目の前の人が抱えてる「感情」を、

ねぎらえる人が、
もっともっと増えたらな、、、と、
思う今日この頃です。

少しだけ、頑張るのが疲れたあなたに。 「ねぎらいの物語」を贈ります。