動画・生放送文化が「初見」という言葉の用法に与えた影響について推測する

初見」という言葉がある。

読んで字のごとく「初めて見る」が核となる意味で①、人を初めて見るのであれば②の意味、楽譜を初めて見るところから拡張すれば③の意味になる、ということが自然に理解できる。

この言葉、現代では非常に日常的な用語で、特に、インターネット上での動画や生配信の文脈上で目にすることが多い。
その配信者の配信を初めて見る新規の視聴者が「初見です」とコメントしてそれに配信者が「初見さんいらっしゃい」と返す、というような流れはごくありふれた光景だし、何らかのゲームをはじめてプレイする様子を撮影した動画には「初見プレイ」というタイトルがついていることが多い。また、存在をあらかじめ知っていなければ対処が困難な仕掛けや対戦ゲームにおける戦術を「初見殺し」と形容することもある。

ただ、ここで少し昔に思いを馳せてもらいたいのだが、この「初見」という言葉がこんな風に使われるようになったのは、いったいいつからだっただろうか?
もちろん、上のコトバンクに紹介されている用例にもある通り、言葉自体は存在したし、現在のような意味(つまり、①の意味)で使われることもなくはなかった。
しかし、今のように身近によく目にする語句だっただろうか?
フランクな文の中で「初見では○○だったが…」と出てきたり、昨日見た番組についての会話の中で「△△昨日初見だったんだけど…」と使われるような言葉だっただろうか?

僕の記憶では、そうではない。
しっかりとした覚えがあるわけではないが、自分がまだ小さい頃はこんなに身近な言葉ではなかったと思う。
たぶん、僕にとっての「初見」の初見は、『のだめカンタービレ』で、「楽譜を初めて見た状態で演奏すること」の意味で使われているのを読んだ時であり、その次に目にしたのは「ニコ生」のコメント欄だったような気がする。
字面から簡単に意味が推測できてしまい、急に使われても驚きが少ない言葉なのであまり自信はないが、「初見」をよく目にするようになったのはそれよりも後、動画や生配信が広く普及した後であったように感じる。
なんなら最初は言葉の存在をちゃんとは知らなくて、配信者が「しょけん」と読むのを聞いて「はつみ」じゃないんだ、と思った記憶があるような気もしなくもない。

もし僕の感覚が正しかったとしたら、この「初見」という言葉は、大昔からあった語句であるにもかかわらず、せいぜいここ15年くらいの間に用いられ方が大きく変わった語である、というふうに言えると思う。
しかも、もしかすると、そうした用法の変化のきっかけがどのあたりにあるのか、というのもある程度分かったりするかもしれない。(もしもこの点についても僕の感覚が正しかったとすれば、ニコ生がきっかけということになるわけだ。)
それは、別に意味や価値があることではないにしろ、なんとなく面白いように感じる。

なので、今回はこの「初見」の意味や用いられ方について、時代と共に何らかの変化があったのか、あったとすればそれはどのタイミングなのか、といったことを調べていきたい。

1982年時点で意味自体はあった

これは全くたまたまなのだが、僕の自宅には、三省堂国語辞典の第三版がある。

正確には『大きな活字の三省堂国語辞典 第三版』

世の中には辞書マニアという趣味があって、そういう趣味を持つ人たちは自宅などに様々な種類の国語辞典の各版を揃え、収録語や語義の変遷を楽しんだりされているらしい。『辞書部屋チャンネル』というYouTubeチャンネルの動画を何本か見たことがある。しかし、あいにく僕はそういう趣味を持っていない。
なので、この古い辞典が家に転がっていたのは全くの偶然なのだが、今回に関してはこれはすごく幸運なことといえる。
これで「初見」を引いてやれば、この第三版の出版(1982年)時点での語義が分かるということになる。
しかも、聞くところによると、この「三省堂国語辞典」は、語義の掲載順を、よく使われるものから順に載せるような方針の辞典であるらしい。広辞苑など、その意味の成立年代の順に並べるような辞典もあるらしい中で、この『三国』(かっこいいからこう呼びたい)があったというのは今の僕にとってますます都合がいい。引いた時に意味が並んでいる順番が、1982年時点での「初見」の使われ方を示しているということになる。

ということで引いてみると、

一〔文〕はじめて・見る(あう)こと。
二〔音〕はじめて その楽譜を見・ること(て演奏すること)。

『大きな活字の三省堂国語辞典 第三版』金田一京助+金田一春彦+見坊豪紀+柴田武

とあった。
つまり、1982年時点ですでに、「初めて見る」というのが最も広く知られた意味だったということだ。
だとすると、僕の感覚が誤っていて、昔から普通に今と変わらぬ形で用いられていたということになるのだろうか……。

『現代日本語書き言葉均衡コーパス』

実のところ、今回のような問題(ある言葉の時代ごとの使われ方)などについて調べるときには、わざわざ古い辞典を探して引いたりしなくとも、その目的にドンピシャの解決策があったりする。

それが「『コーパス』を検索する」というものだ。コーパスというのは、私たちが普段使っている言語(自然言語)について、その文章や使い方を大規模に収集し、コンピュータを用いて検索できるようにしたシステムのことを指す。
収集する対象(書き言葉や話し言葉など)やコンセプト、収集者によってさまざまなコーパスが存在し、目的に応じてそれらを使い分けられたりするらしいのだが、言語学について全くの素人の僕には詳しいことは分からない。
ただ、今回のような場合には、日本語についてのコーパスの中で恐らくは一番有名な『現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)』というものを使うのがよさそうだ。

これは日本語の書き言葉について、あらゆるジャンルから無作為に文章を収集したコーパスで、書籍や新聞などに留まらず、白書や法律からブログ、ネット掲示板に至るまでを収集対象とし、それらの中から出来るだけ偏りが出ないよう抽出された文章から様々な形式で語句などを検索することが出来る。あらゆる収集元から偏りなく無作為に、ということで、「均衡」の文字が名前に含まれている。

この「BCCWJ」、もちろん日本語の言語学的研究にも非常に役立てられているものすごく価値のあるものらしいのだが、なんと、一般人が気軽に触ってみることもできる。
『少納言』『中納言』という二種類のオンラインサービスがあり、『中納言』の方は登録制だが、『少納言』は無料、会員登録のようなものすら不要で利用することができる。

検索してみると、「初見」の用例はコーパスの中に171件あった。(なお、少納言はキーワードを検索した状態の検索結果画面URLを取得することが出来ないようなので、気になる方は自分で検索してみてほしい)

ただし、それぞれの用例を見ていくと、そのうち67件は、「最初見た」「当初見込み」「初見参」など、複数の語に跨って「初見」の文字が現れたケースのようだった。つまり、実際に「初見」という言葉が出てきた件数は104件ということになる。

なお、以下で書いていく内容はこの検索結果をスプレッドシートに貼り付けていろいろと触ってみた内容に基づいている。そのスプレッドシートは以下のURLに公開しておく。

この104件をさらに分類していくと、面白いことに気がつく。
特徴的な用いられ方をしているケースが2種類あるのだ。1種類は、「楽譜を初めて見ながら演奏する」のケース。これは国語辞典にも挙げられていた意味だ。数えると、これが25件あった。

そしてもう一種類、「歴史的な人・物事が初めて資料などに登場する」のケースがある。

しかし多数の隼人移住の確実な史料上の初見は七世紀後半であり、大隅隼人が相撲に勝ったという……(後略)

『岩波講座日本通史 第4巻』熊田 亮介(著)

などのように用いられており、恐らくは歴史学分野の用語というか方言のようなものであると思われる。

そして、これが件数的には一番多い。実に51件がこの用法だった。(ただし、同じまとまりの中に繰り返し登場するパターンが多く見られたので、これがそのまま「一番一般的な用法はこれだった」という結論を導けるわけではない)

で、残りがそのほかのケース。これらは単に「初めて見た」の意味で用いられていると考えられるものだった。これが28件。今回問題にしたいのはこの28件についてだ。

この28件、年代ごとに見ていくと、かなりわかりやすい特徴が出ていた。

グラフにしたもの。
ただし、2006年と2007年はそもそもコーパスに全く文書が含まれていない為そもそも横軸から除外している。そこは注意!

なんと、28件のうち実に21件が2008年に登場するもの。1982-2005年までの期間でこの用法が見られたものはたった7件と、明らかに偏りがある。
ちなみに、「初見」という言葉自体の登場回数は、2008年が32件。2005年以前が72件と、「初めて見た」の意味で用いられた比率で言えばさらに開きがあることになる。

ちなみに、2005年までと2008年のみ、という区切りは自分が設定したものではなく、単にこのコーパスの収集元の文書にそこで区切りがある(06,07年の文書は全く含まれていない)ことによるものだが、今回注目している「初見」という単語について考えるときには、偶然にも非常にちょうどいいタイミングでの区切りになっている。
『Youtube』の開設が2005年2月14日。『ニコニコ動画』は 2006年12月12日。『ニコニコ生放送』は2007年12月25日と、ちょうどこの前後が「動画・生放送文化」の普及の時期と重なるのだ。


つまり、動画・生放送文化がまだほとんどない時期に「初見」が単なる「初めて見た」の意味で用いられていたのは全体の1割程度であり、それが普及した時期になるとその意味で用いられるのが全体の75パーセントを占めることになった、ということになる。

厳密性は高くないが、これは「動画・生放送文化によって『初見』という言葉の使われ方が変化した」と主張できうるのではないだろうか。

つまり、やっぱり自分の感覚はある程度合っていたのではないか。

想定される別の要因

と、ここまで自論を補強するような内容を導いてきたが、この記事を「明らかなインチキ」にしないために一つ触れておかなくてはいけない部分がある。(触れておいたとしても、「信用のならない投稿」ぐらいにしかならないが)

それは、05年までの文章と08年の文章で収集元が異なっているという点だ。
具体的に言うと、08年の文章の収集元は『Yahoo!ブログ』のみに絞られている。なおかつ、05年までのデータにはブログ記事からの文章は含まれていない。
恐らくはBCCWJ作成時の都合によるものだと思われ、これ自体は別に問題があることではないが、05年までと08年とを比較して「時代的な要因」を論じることには大きく問題がある。つまり、「ブログや日記にのみ現れる単語」のようなものがあったとしたら、それの出現を時代の変化によるものだと誤ってしまう可能性がある。

ただ、今回の「初見」については、これはそこまで大きな問題ではないように思っている。それは、

  • 少なくともブログ記事に特有の単語ではない

  • 砕けた使い方である可能性はあるが、雑誌やYahoo!知恵袋といった「砕けた文章が載る媒体」が05年以前の収集元に入っている

という理由によるものだ。
これが例えば「トラックバック」みたいな単語なら、恐らくは05年以前のブログ記事にも多く登場したはずで、この単語の初見年代を推定するのに今回の調べ方はまずいだろうがそうではないし、ブログと近い程度に砕けた文章が載る媒体が収集対象に入っているので、この意味での用法の出やすさが文章のフォーマルさに依存するのだとしたら、05年以前にもそちらの媒体で頻出するはずだ、ということだ。(ただし、Yahoo!知恵袋には一件、この「初見」の用法が05年にある。)

つまり、「ブログかどうか」という媒体の差はこの用法の出現頻度の差にそこまで大きな影響を与えているわけではなく、やっぱり動画・生放送文化の普及がこの変化をもたらしたのではないか、と、改めて言えることになる。

もちろんちゃんとした調査や厳格な手順を守っているわけではないので、この主張が何か価値を生んだりということは全然ないのだが、ちょっとした話として語る分にはそこまで怒られない程度には根拠がある、と思いたい。

05年以前の7件に注目する

と、いうところで当初気になっていた疑問には一応の結論を付けたのだが、こうなってくると、「動画文化以前にこの意味で『初見』を使っていたのはどういう文章・人物なのか?」というところが不思議に思えてくる。

なので一応その文章をそれぞれ引用すると、

撃剣稽古は名人の師匠に教えを乞うことも必要であるが、一人でも多く初見の相手と立ちあうように努めねばならない。

『天狗剣法』津本 陽(著)

やっぱフェスだから、色んなミュージシャンのファンが集うし、自分のように彼らを初見って人は多かったと思うので、「普段はあの位は当然」といわれても、やっぱキツイです…

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q115536566

初見の土地へ対しても、すつとこ被りもなるまいし…

『十和田湖』 泉鏡太郎(著)https://www.aozora.gr.jp/cards/000050/files/57489_59619.html

そのルポで、テレビで初見した頃のM氏の印象を、こう記述している。

泉麻人(著)『IN POCKET 2004年2月号(第22巻第2号)』より

『上海』は幻のフィルムであり、白井佳夫でさえも初見であった。

『大革命論』平岡正明(著)

前者はすでに観ていたが、もう一本の3D映画、『悪魔のはらわた』は初見だった。

『フリッカー、あるいは映画の魔』セオドア・ローザック(著)/ 田中 靖(訳)

しかし、モラヴィア初見の読者のために一言記すなら、

『金曜日の別荘』アルベルト・モラヴィア (著)/大久保 昭男(訳)

並べて見ると、後半3つはすべて「作品」についての文脈での用いられ方なのがわかる。これは現代での使われ方に通ずるものがあるし、生放送や動画を「初見」と言うときも、ゲームの「初見」プレイも、この使われ方が念頭にあって広まったものかもしれない。

「人」に対するものも3件ある。剣を交える相手、フェスに出演したミュージシャン、先輩アナウンサー(M氏)など相手が様々だが、これは冒頭で紹介した辞典の②の意味に当たりそうだ。
ちなみに、このうち「M氏」に初見したときの印象を述べている泉麻人氏は作家・コラムニストを本業としながら気象予報士の資格を取得された方で、この文章もその顛末を記した著作『お天気おじさんへの道』にも収録されているのだが、気象学用語には、「ある生き物をその年初めて観測すること」という意味での「初見」の用法がある。
もしかすると、この意味での「初見」という言葉に馴染みがあったことが、この文章に「初見」という単語が登場した背景にはあるのかもしれない。(実際、『お天気おじさんへの道』には気象学用語の「初見」も何度か登場する)


作品に3つ、人に3つというように分類すると、異質なのが残り1つの『十和田湖』のものだ。これは土地、つまり場所に対して「初見」という言葉を用いている。完全に単純な「初めて見た」の意味での用法ともいえ、使い方の感覚としては現在のものと一番近いとも言えるかもしれない。

この用例に関しては、元の文章が書かれた年代が他のものに比べて圧倒的に古いというところも特徴と言える。(1927年の新聞連載らしい)
もしかすると、戦前やもっと古い時代には、この単なる「初めて見た」の意味での用法がもっと一般的だったのかもしれない。歴史学用語としてよく登場しているというところも含めて考えると、なんだかその説にもちょっと説得力が出てくる気もする。
とはいっても、実際のところはよくわからない。
出典が文学作品で書き手が泉鏡花であるというところも考えると、土地を人になぞらえた比喩表現……ということもあるのかもしれない。

おまけ

文中でちょっと触れた辞書部屋チャンネル。
6ヶ月前で更新が止まっているが、元々不定期更新を掲げているチャンネルでTwitterも動いてるようなので、今後も時々更新されるものと思われる。

自分の好きなYouTubeチャンネル『ゆる言語学ラジオ』のコーパス回。このシリーズでは、BCCWJの作成者の一人である丸山先生がコーパスの使い方や作成時の苦労話を話されている。

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