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自分の名字のルーツについて、できるだけ本気で調べてみたレポート(ただし全部ウソ)

はじめまして。ノサダと申します。

好物は納豆巻きとヨックモックのあれ、本名の名字は丁原(ちょうはら)です。




すみません。嘘をつきました。本当はそんな名字ではありませんし、どうやら丁原という名字は存在してない(少なくともインターネットには補足されていない)らしいです。

https://name-power.net/fn/%E4%B8%81%E5%8E%9F.html

どうしてこんなしちめんどくさい嘘をついているのかというと、インターネット上での身バレが怖ぇえからです。
これだけではまだまだよく分からないと思うので、順を追って説明していきます。

名字への関心

冒頭で名乗った「丁原」の名字は全くの嘘なんですが、実は、自分の本当の名字もかなり珍しい部類のもので、インターネットで調べてみると、どうやら全国に50人くらいしかいないらしいのです。
そしてさらに、祖父の話を聞くに、把握している親戚を全部数え上げたらそのくらいになりそうで、つまり、おそらくは自分の親戚以外、同じ名字を名乗っている人はいないということになります。

実際の名字の字面自体はそんなに珍しいものではなく、ちょうど「丁原」と同じくらいの見慣れ度合いなんですが、その字をその順に組み合わせる名字となると、曾祖父母かその上くらいを共有している人たちのみに絞られるということらしいです。

最初に自分がこの名字の珍しさに気づいたのは小学校高学年くらいの時で、その時もインターネットで名字の人数や世帯数を検索できるサイトを使ってそれを知ったような気がしますが、それ以来、僕はこの名字に、誇りは持たないまでも、そこそこの関心を持ち続けていました。

そういう理由から、これまでもちょくちょくインターネットに落ちている情報を探してみたりはしていたのですが、今年の夏はちょっと一念発起してしっかりと調べてみようかという気持ちになり、調べた結果現段階で一応行きつくところまでは行きつけたという感じがしたので、その結果や過程をまとめたくなり、この記事を書くことにしたのでした。

本名バレが怖い

インターネット上にこの記事をまとめるにあたって、最初に僕が直面した問題が、「ネットに本名を書きたくない」でした。
今となってはネット上で本名で活動するのは当たり前になり、なんならもうすべてのwebサービスのアカウントを集計でもすれば、本名を名前に設定しているアカウントの方が多くなるのではないか、というくらいの状況になっていますが、おおよそ20年前くらいからインターネットに入り浸るようになった自分は、まだ「ネットに本名を書く」ということに結構な忌避感があります。
別に後ろめたいことがあって素性を隠したいとか、本名とネットの人格がつながると何かマズいことがあるとかそんな訳ではないのですが、ただなんとなく嫌で、怖いという気持ちを未だに改められていないのです。

そうは言っても、自分が書こうとしているのは本名に関する記事。調べていて分かったことを書こうにも、完全に本名を隠した状態で「自分の名前にはこういう字が入っていてそれにはこんな説が…」というのをいちいち断って書いていくのはすごく面倒です。

そこで僕はある解決策を考えました。

偽名を名乗ればいいのです。

調べた結果分かった情報が当てはまるような嘘の名字を考えて、その偽名を使って記事を書いて行けばいいのです。

そんなわけででっちあげた偽名が「丁原」でした。この名前であれば、今回の記事内で行う説明にも、概ね矛盾なくフィットしてくれそうです。
また、同じ理由で、記事中に登場する地名や人名などの固有名詞も全部架空の偽名にしますし、情報の絞り込みが出来かねない「数字」や「単位」が登場する部分についても、わざと盛大に誤植します。

なので、この記事には今後、実在しない地名がたくさん登場しますし、数字の説明が訳の分からないことになっている部分が出てきます。
そしてそれらの固有名詞は実在する同名のものと何ら関係のないフィクションですし、単位も現実における数値となんら関連を持ちません。

あと、「こここういう画像があったほうがブログ記事っぽくなるな~」みたいな部分だけど、その画像を載せちゃうと特定につながりかねない、みたいなところに関しては、AIに生成させたそれっぽい画像を挿入します。
どうしても替えの効かない、例えば言及したい場所の現地そのものの写真なんかのみ、実際に撮影してきたものを極力情報量を削って載せたいと思います。

つまりこの記事は、情報の「構造」みたいな一番抽象的な芯の部分と、一番詳細で具体的な部分である実物の写真のみが事実で、あとは全部ウソというものになります。なので、出来上がる文章としては、ChatGPTに生成させたでたらめな記事と大差ないかもしれません。
ただしそれと違うのは、この記事に書かれている情報の出自が、全て僕という人間が足を動かして集めてきたものであるという点です。
いや、勝手に趣味でやってるだけなんでそんなに偉そうに言うことでもないのですが、そういう「事実の話」だからこそ付きまとう、調査のもたつき具合・言及の歯切れの悪さまで含めて楽しんで頂ければ、と思います。

そういうわけで、これ以降、僕の名字は丁原で、今住んでいる場所は小岳県、記事の内容における調査のメインとなった土地は作端と長月ということで進めていきます。

それでは、それを踏まえていただいて、以下からいよいよ本題に入ります。

※上に書いたような対策をしてはいますが、それでも、現地の画像であったり、出てきた情報の構造を突き合せていった結果、僕の本名の名字に辿り着いてしまう人は出てきうるとは思っています。
もちろん僕としてはそうならないのが一番うれしいのですが、そんなことができる人はたぶん今回の記事の関連分野に僕よりもずっと詳しい人だろうし、しかも相応の熱心さを持って読み込んでくれたのだと思うので、それならもう仕方ない、という気持ちもあります。
どうせ現実でもネットでもそう悪いことをしてきたわけでもなく、単に不特定多数の人に身バレするのが嫌というだけなので、そのくらいなら諦めがつきます。
なのでもしも特定できてしまった人がいたら、↓の出典欄に僕のTwitterを載せておくので、これにこっそりDMを下さい。合ってたら合ってるとちゃんと言うので、そのくらいで勘弁してやってください。

https://twitter.com/nosadaMC

祖父からの伝聞

さっきも書いたように僕は、小学生くらいからなんとなく自分の名字の由来に関心があったので、父や祖父にそれについて聞いてみることもありました。
どちらも最初に聞いた時にはあまりよく分からないという回答だったのですが、あるとき、祖父が「最近本家のほうに行ったときに聞いてきた」と言って、こんな話を教えてくれたことがありました。

・今は作端(瀬川県)に丁原の本家があるが、江戸の頃に殿様について長月から移ってきた
・もともとの名字は長原とかいてちょうはらだったが、手柄を立てたときに長月の殿様に褒美として丁の字に改める権利をもらった

祖父の話

つまり、丁原という名字ができたのが江戸時代であり、なおかつその名字が与えられたのが一家系のみであったため、現時点で認知できる親戚にしか広まっていない、というものです。
確かに、長原という表記の名字であれば、多くはながはらと読みそうではあるものの、比較的よくあるもののようです。
由来にも地形という非常に分かりやすいものがあり、長原からの派生ということであれば、非常に珍しいこの名字が存在しているのも納得がいきます。

ただまあ、疑問として残るのは、

本当か?

という部分です。名字の由来というのは結局名乗っている本人たちの証言が一番有力な証拠になることも多いらしいけど、ちょっと名誉そうなエピソードとセットなのもあって、これだけの証拠で頭から信じてしまう気にはなれません。

そういう訳で、この話を祖父から聞いた以降も僕は、折に触れては自分の名字に関係しそうな情報を調べ続けてきました。

インターネット

名字の由来を調べるとき、一番簡単なのは、さっきから何度かリンクを載せているようなサイトの情報を参考にする方法です。いわゆる「よくある名字」の人は概ねこれで調べがつくでしょうし、戦国武将や公家、地名や役職などに由来する苗字の人も、これらのサイトが多くの情報を載せてくれています。

もっと言えば、字面を見ればある程度由来の想像がつく名字も少なくありません。例えば「田中」さんなんかは田の中央部という地形を由来とすることが非常に多いようですし、山本さん、中村さんなんかも多くの場合は住んでいた場所が名字の由来になっているはずです。

ただ、丁原の場合はそうはいきません。
これだけ人数の少ない名字では、それらのサイトを見て回っても、断片的な手がかりが載っているだけであったり、そもそも由来に関する情報がなにも書いていなかったりと、あまりアテになりません。(仕方ないというか、当然のことだとは思います)
また、その断片的な情報というのも、

丁が「南南西」を意味する例あり。

https://name-power.net/fn/%E4%B8%81%E5%B1%B1.html

(※「丁山」さんの情報で代替)
といった程度のもので、だとしたらどこから見た南南西なのか、あるいは本当にその意味でつけられた字なのかなど、詳細を追っていくことが出来ない情報でした。

ならば、ということで名字という枠を取っ払って調べることにします。インターネット上で検索していくと、以下のような情報がヒットしました。

  • 小岳県の初野に「丁原池」が存在する

  • 瀬川県の作端に「丁原稲荷神社」が存在する

これらのうち、稲荷神社はまず間違いなく自分たちの家系に関係があるものと見て間違いないでしょう。祖父の話にも登場した、本家のある場所がまさに作端です。
ただ、まちがいなく関係があるからこそ、ルーツを辿るには役に立たない可能性もあります。つまり、その地域に住んでいる自分たちの家の方から神社に名前がついたかもしれない、ということです。
そもそも祖父の話によれば、今作端にある丁原の本家は、江戸時代に長月から移ってきたもの。だとすれば、例えば「作端に丁原という地名があって、その地名から神社も我々の名字も名づけられた」というような分かりやすい説明は成立しないはずです。

一方で、丁原池の方は手掛かりとして面白い可能性があります。
小岳県は瀬川県と隣り合っており、また、初野は県境にはないものの、比較的瀬川よりの町です。人の行き来があってもおかしくない程度の距離にあります。
池の名前の由来をインターネット上で確かめることは出来ませんでしたが、例えばば、長月ではなく初野にいた長原家が何らかのきっかけで字を丁に改め、この地で池の開拓に貢献した後に作端に移り住んだ…というような経緯もあり得そうです。(祖父が聞いた本家の伝承のうち、殿様との関係性の部分が見栄のために付け足されたという解釈です)

幸いなことに、自分は地元こそ口蔭で小岳とも瀬川とも遠い(父が瀬川から移住したため)ものの、現在の居住地は小岳県内にあります。
池までは2時間足らずのドライブで行ける距離。現地に向かってみることにしましょう。

現地調査

初野の丁原池へ

丁原池は、都市部から離れた郊外の農業集落の中にあります。恐らくは、この集落での営農に池の水が役立てられているものと思われます。
なので道中の風景はずっと山、山、山。




こんな風に景色のいい道もありましたが、すれ違うのも困難な林道の中をかなりの時間走ってようやく現地に到着しました。


写真を見ればわかるように、池の周りも山に囲まれています。ただ、池があるあたりは少し開けた地形になっていて、そこに池そのものと、若干の原っぱというか、草地があります。


その草地に石碑が建っているのですが、ここで、この石碑に少し気がかりな記述が。


昭和16年

昭和16年竣功。
うーん、ため池自体が出来たのがこのタイミングということでしょうか。
だとすれば、昭和16年というとちょうど祖父が生まれたあたり。その時にこの地域に親戚が住んでいたりすれば祖父がきっと把握しているはずで、この池と丁原の名字は関係ないかも…?

ただまあ、この竣功の日時に関しては、単に元々あった丁原池を整備する工事などが行なわれた時の記録である可能性もあります。
しかしここで僕は、周辺の地図にもう一つ気がかりなものを見つけてしまいます。


この池の北北東に、ちょうど同じくらいのサイズの池があるのです。

北北東にあちらの池があるということは、向こうから見ればこっちは南南西少し開けた原っぱにこっちの池はある。ん?南南西……?

丁が「南南西」を意味する例あり。

https://name-power.net/fn/%E4%B8%81%E5%B1%B1.html

「南南西(丁の方角)の原っぱにある方の池」なのでは?

もしもこれが正しいとすれば、名字の丁原とはあまり関係がないかもしれません。そういう成り立ちであれば、それぞれ独立して名づけられている可能性が充分にあります。
何かヒントはないかと思い、もう一つの池に向かおうとするも、丁原池からまっすぐ北北東方向は山の切り立った斜面。恐らくこの斜面の上か、山を越えた先にあるくらいの距離だとは思うのですが、さすがに分け入っていく気にはなれません。

周囲を少し車で回ってみると、「もしかしたらそちらに抜けられるかも」という感じの、地図に表示のない道がありました。路面もちゃんとは見えないようなその道を奥へ進むと…


倒木で進めません。
ちょうど車と干渉する高さに倒れているし、ちょっと人の手でどかすのは無理そうです。
それでも、車を近くに止めて歩いてさらに奥まで向かおうとしたんですが……。

300mくらい進んだところで、子供用の三輪車くらいの高さの成イノシシが前を横切ったので走って逃げました。
※本当は背中を向けて走って逃げるのも危険らしいので注意!僕は無事でした。

そんなわけで、現地を見に行くのは諦めることにしました。
後でそちらの池について、ため池マップという町が出している資料で確認してみると、庄屋池※という名前でした。「庄屋さんの家から見て丁の方角の原っぱ」で土地や池の名前がつくのは全然ありえそうなので、やっぱりこれが由来かもしれません。

(※庄屋池は実在しますが無関係です。ただ、本当の名前も似たような「集落の中心地」になりそうなものから取られた感じの名前でした)

作端の丁原稲荷神社へ

池の方に足を伸ばしたわけですし、ついでに稲荷の方にも向かうことにします。居住地から見れば池とは反対方向ではありますが、さっきも書いた通り隣県瀬川に位置しているので、そこまで構えることなく向かうことが出来ました。
こちらも山道ではありましたが、池の方とは比べ物にならないくらい整備された道ですぐ近くまで向かうことが出来ました。神社の前に通っている道も県道で、その道に沿ってお社があります。


これが丁原稲荷神社です。
道沿いに小高い丘があり、その丘だけで参道から社殿までが完結している小さな神社ですが、少なくとも打ち捨てられたり忘れられたりはしていなさそうです。
中央と左右にそれぞれ社殿がありますが、どれもお参りができるように開かれていますし、参道も草刈りを行った跡があります。
来る途中に人が住んでいそうな集落があったので、そこの地域の方が維持して下さっているのかもしれません。聞いている本家がある場所とは少し離れていますが、何らかの関係があるお家がそこにあるのかも。

となると、ついでに近くのお家を訪ねて話を聞く…というのが本来の流れなのでしょうが、すみません。コミュニケーション能力に自信がなさすぎて、写真だけ撮って帰りました。

「すみません。僕は丁原という名字の者で、あ、これが名刺なんですけど……そこの丁原稲荷が自分にもしかしたら関係がある場所なのかなと思ってお話を……ア、ハイ、丁原さんが町内にいるのは知って……ああいや、そちらとは親戚なんですけど自分は分家のほうで……いえ、何のためとかじゃなくて単に趣味で調べてるんですが、ええ……」

というのをやりたくなさすぎました。本当にすみません。

どうせちょっと足を伸ばせば来れる場所、地元の人に聞くにしても、もっと知識が突き詰められたり、調査が追い込まれたりしてからでいいや。
というのを言い訳にして僕はこの場所を後にし、次は図書館へ向かいました。

図書館


図書館に来たのは、訪れた二つの場所について、郷土史的な史料からもう少し詳しいことが分からないかと思ったからです。インターネット上を探しても、この程度のローカルスポットの情報はせいぜい存在と所在地くらいしかわかりませんが、地域についてまとめた文献であればより詳しいことが分かるはずです。
大半の公立図書館には「郷土資料」のようなくくりで、その地域と近隣地域(3つ隣の自治体くらいまで)についての資料が集められたコーナーがあります。

幸いなことに、自分の居住地は池とも稲荷ともその「近隣地域」のくくりに入る場所にあります。
近くにある図書館の中で一番大きいところに行けば、恐らく両方の郷土資料を目に出来るはずです。

『初野史』


ある程度の歴史がある自治体はほぼすべて、自治体公式のプロジェクトとして『○○市(町)史』というものを出版しています。それは初野も例外ではなく、4巻分にまとめられた、英和辞典みたいな分厚さの本を見つけることが出来ました。

目次を見ていくと、なんと、江戸-明治くらいの時期に調査が行なわれた、地域内の全ため池を記録した資料がありました。
さらに細かい地域ごとにまとまっているので、丁原池のある辺りの記述に目を通していくと…ありません。

当時とは町の区分が違うかもしれないと思って一応全地域分確認しても、やはり見つかりません。

こうなってくると、やはりあの丁原池は、昭和16年に新造されたという可能性が高そうです。
明治期には丁原という名前は、まだ影も形もなかったのかもしれません。
それはつまり、先述したような理屈で、あの池と自分の名字に関連がある可能性がかなり低くなったことを意味します。

ちなみに、他に手掛かりはないかと索引や地名の由来がまとめられた部分をめくってみたのですが、丁原という名前はどこにも立項されていませんでした。隅々まで読めばどこかには登場するのかもしれませんが、少なくとも、この本から由来について有力な情報を得るのは難しそうです。

『作端史』


気を取り直して、今度は稲荷のあったほう、作端の方の郷土史を確認してみます。
こちらは2冊にまとめられており、「宗教」が大見出しとして立てられていました。さっそくそのページをめくってみると…

作端では、千寿院の岡氏、不動院の吉田氏、稲荷神社の丁原氏などがあり、…(略)

『作端史』

あった。めっっっっちゃありました。

驚きながら読み進めてみます。

作端では、千寿院の岡氏、不動院の吉田氏、稲荷神社の丁原氏などがあり、この三氏は島本治俊公の作端入部の際に、随従を願い出た際「自治するならば随へ」とのことで、作端に移り祈祷を始めたものという。
(中略)

『作端史』

めちゃくちゃ重要な情報がいっぱい出てきました。
実際自分も図書館でこの記述を目にして死ぬほどビビったのですが、要するに、あの稲荷神社はやっぱり自分たちの家から名前がついたもののようです。

また、島本治俊公というのは、作端に来る前には長月にいた大名のようでした。入部というのは領主が領地に入ってくることを言う用語だそうで、つまり、祖父が本家から聞いた話のうち、少なくとも、「長月から殿様と一緒に移ってきた」という部分については、文献による裏取りができたことになります。

中略以降の部分にも重要な情報が書かれています。

行者は、役行者の尊像がご神体である。代々、丁原氏の先祖が山伏として護持していたといわれ、丁原旧屋敷の天井裏から数本の錫杖が出てきたという。

『作端史』

これは丁原稲荷神社にあった3つの社殿にそれぞれ祀られている神様について解説した部分なのですが、その中に「役行者」という人物の像をご神体に祀っているものがある、と書いてあります。
役行者というのは役小角という飛鳥時代の人物のことで、この人物は修験道の開祖とされることも多く、俗っぽく言えば山伏界のスーパースターのような存在だそうです。
ちなみに山伏、あるいは修験者とは、山中に入って様々な修行をし、山の霊力を自分の身に吸収して人々にそれを授ける、とされている存在だそうです。錫杖というのは山伏が修行を行なう際に持っている杖のことで、この道具があったこと、役行者を祀っていることなどから、丁原の先祖が山伏であったということが補強されています。

補足知識が多くて煩雑になってしまいましたが、この本から得られた新しい知識は以下の3つです。

1.丁原稲荷は僕の先祖である丁原という氏族を名前の由来としていること
2.丁原氏は代々山伏であったこと
3.丁原氏は元々作端にいた訳ではなく、島本治俊公について長月から移り住んできたこと

ちなみに、山伏というのは仏教にも神道にも明確に属していない存在であり、稲荷も様々な性格のものが存在する信仰の形であったために、修験者が稲荷社を開くということ自体はそんなに珍しいものではなかったようです。

稲荷信仰は様々である。神道的稲荷で祭祀者が神職で宇迦之御魂神・保食神などを祀る神社によるもの、仏教的稲荷で祭祀者が僧侶・修験者で、寺の鎮守堂で荼枳尼天を祭祀しているもの、民俗的稲荷で祭祀者が土地所有者や氏子・講員などで、狐神・山の神・水神・福神・御霊神などとして信仰されているものがある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E#%E4%BF%A1%E4%BB%B0

『作端史』を読んだことで、かなり大きな進展を得ることが出来ました。
あとは長月の地に丁原という名字の由来になりそうな場所や痕跡を見つけることが出来れば、自分の名字のルーツを辿ることが出来たと言ってよさそうです。

あるいは、長原と書いてちょうはらと読むものの痕跡でもよさそうです。もしもそちらの資料が見つかれば、祖父が聞いた伝承の「長月の殿様から名字をもらった」というところまで信憑性がぐっと高まります。

ともかくもこれで、僕が次に取るべき行動はおのずと決まりました。

作端よりも前に丁原家がいたはずの場所、長月へ向かいます。

長月へ

千頭町

長月市は貝山県に位置しており、江戸時代、この地は長月藩によって支配されていました。
かつてこの長月藩の藩主であったのが島本家で、後に作端へ移ることになる島本治俊もこの島本家の大名でした。

ただ、事前に調べてみると、治俊は長月の藩主であったことはなかったようです。
甥にあたる頼家が藩主としての家督を継いだ際、当時2歳とあまりに幼かった頼家の後見役として、長月藩の領土の一部を分け与えられる形で領主となったのが治俊だった、という経緯がありました。
その際治俊が治めていたのが、現在も長月市に属する千頭町の辺りであったとされています。

なので僕が最初の目的地としたのは、この千頭町の中心部にある図書館でした。まさに治俊が統治していた地域そのものに属しているわけで、ここの郷土資料として所蔵されているもの以上にこの地域の歴史を雄弁に語るものは恐らくないでしょう。

さっきまでの2地点とは違い、ここはそう気軽に来れる距離の場所ではありません。現地に到着した僕は、意気込んで何冊も文献を手に取って調査を始めました。
まずはこれまでに倣い、千頭町史をめくっていきます。

町内の宗教施設がまとまっている章がありました。ものによっては祭祀者の氏名まで詳細に書かれているところもあり、改めて資料としてすごく有用だなあと感じますが……そこに丁原の名はありません。

元山伏であるということも考慮して寺院やその他宗教施設のところまで確認しても、関連しそうな情報は出てきません。
そもそも、この地域には稲荷神社がほとんど全くありません。大きな神社の中に、稲荷社を設けているところが2つほどあるだけです。

もちろん、祭祀者である丁原家が出て行ってしまったのだから丁原稲荷という名前のお社がここには存在しないということ自体は疑問にはなりませんが、この状況を考えると、そもそもこの地域では稲荷信仰がそんなに盛んではなかったのではないか?という気もしてきます。

とはいえこれで諦めるわけにはいきません。

歴史を時系列で述べている部分の「近世」章を読み、島本家の統治下での出来事を確認してみます。めぼしい情報はありません。

各地域の地名の由来の中に丁の字や長原の文字、あるいはちょうはらに近い音の何かがないか見てみます。見当たりません。

文化・習俗の中にそれっぽい記述が登場しないか確かめてみます。元々望み薄ではあると思っていましたが、やはりありません。

資料編の中に、島本家に伝わる文書や、各村からの納税の記録が原文(漢文の読み下し文)のまま記載されていたので、苦しみながらそれを目で追っていきます。丁原の文字はどこにも登場しませんでした。

詳細地図で丁原、あるいは長原という地名が町内にないか探してみます。どうやら存在していないようです。

作端の地域団体が編纂した、治俊に関しての資料を集めた小冊子があったので隅々まで調べてみます。手がかりは出てきません。

貝山県内の寺社仏閣が網羅された文献の千頭町の部分を必死に読み込んでも、やはりなにも見つかりません。

レファレンスカウンター(調べ物のプロである図書館の司書さんが調べたいことについて資料の提示などを行なってくれる場所)に経緯を説明して、何かいい資料がないか尋ねてみます。これまでに当たった資料を紹介されてしまいました。

その他、何か関係しそうな本を開いては何も見つからず失望する、という流れを何度も繰り返し、気づけば図書館の閉館時刻となってしまいました。

事前の算段では、一日目に図書館で手がかりを集めてしまい、二日目にその手がかりの現地を回る予定だったのに、なかなかうまく行かないものです。

時間的な制約が来てしまったというのもあるのですが、それ以上に、後半はめぼしい資料自体がもうこの図書館にはなさそうというような状況でした。

そんな散々な結果に終わってしまった一日目でしたが、それでも収穫として残ったのは、いろんな資料を漁って何度も同じような内容の文を見るうちに、段々と島本家と治俊を巡る情報が頭の中で整理され、自分が今後取り組むべき課題や疑問が少しずつ見えてきたことでした。

治俊が甥・頼家の後見役として千頭領主になり、その後作端に領地を移したことは先に書いたとおりですが、この国替は、一般的な移封とは全く異なるものでした。
島本家が長月で領有していた領地の石高は200万ペソ。対して、作端で治俊が領有したのは20万ペソに過ぎませんでした。
また、治俊の作端への入部の際、島本家はもはや長月を領有していませんでした。この時島本家の領地は、治俊の持つ作端のみ。単純計算で、領地を1/10にまで減らすことになっています。

一体どうしてこんなことになったのか。何か失態があって、幕府を怒らせて土地を取り上げられたのか…というと、それは半分正解であり、半分は真逆です。
治俊の甥、頼家が長月藩主としてわずか2歳で家督を継いだのは先にも書いたとおりですが、この頼家は生まれながらに病弱で、8歳になる年に病死してしまいます。
頼家には兄弟もなく、また、僅か8歳で没したために当然嗣子もいません。江戸時代においては、大名家がこのような事態に陥った場合、領地を取り上げた上でお家取り潰しとなる取り決めが存在していました。

当然島本家もその例に漏れず家名断絶、となるところだったのですが、この島本家、頼家の代に至るまでの間に、様々な藩を転々としながら幕府に非常に大きな貢献をしてきた大名でもありました。
その奉公に報いてか、江戸幕府は頼家の没後、特例的な措置として治俊に家名の相続を許して千頭20万ペソの所領を安堵。
その後、別の大名が長月藩の藩主となる際に、石高が同等な作端を治俊の島本家に与え直した、という経緯です。

これ自体ちょっとドラマティックというか、人情とロマンを感じられる話なのですが、それだけでなく、このエピソードは、今回の調査における二つの重要な視点を提供してくれます。

つまり、

  • 治俊に随従して作端に向かったのは必ずしも治俊の直接の家臣や領民とは限らない

  • そもそも、ある氏族が島本家に随従して別の土地に移ったのは今回が初めてではない

という2点です。

もともとの島本家は長月の藩主ですから、当然ながらその財政規模に見合った数の家臣を抱えていました。
それが頼家の病死による異例の形で家督が治俊に移り、同時に領地が1/10になってしまったわけですから、治俊としては、それまでの家臣をそのまま作端に連れて行くだけ、というわけにはいきません。
当然長月藩の家臣も含めて誰を連れて行くかを考える必要があり、しかも、長月藩の重臣であっても全員が随従を許されたわけではありませんでした。
家臣の多くが友藩に移されたり、中には農民となって後に大庄屋として名を残した家もあったとされています。

これと同じことが、家臣だけでなく、随従を願い出た領民にも起こっていたと考えられます。
丁原氏とともに二氏の祭祀者が治俊に随従してきたと『作端史』にはありましたが、これらの氏族が、その時点で千頭の域内に居住していたとは限らないということになります。
つまり、この周りで丁原の痕跡を探すのであれば、少なくとも長月藩の領内全体を探す必要があるということになります。

もう一つの視点は、島本家が様々な土地を転々とした経歴によるものです。
そもそも戦国期に口蔭の一部地域を支配する武将として名を表した島本家は、江戸期に入っても長月藩主に落ち着くまでの間、幕府の命を受けて何度も転封を繰り返してきました。
そんな経歴の中で、菩提寺としていた寺は同名のものが転々としてきた各地域に存在していますし、逆に、築城した城の修繕要員として家臣や職工を残したという伝承があり、そのかつての領内にはほとんどの家の名字が島本である地域が存在している、というような逸話もありました。

つまり、島本家が辿ってきた各地で人の入れ替わりがあり、その地に残る氏族もいれば付き従って次の土地に移る家もあったという訳です。
これはつまり、もしもどこまでも丁原のルーツを見つけられなかった場合、島本家の領有したことのある各所で痕跡を探す必要がある可能性もあるということを意味します。

また、これら二つのことを踏まえると現れてくる疑問と仮説もあります。
疑問は、稲荷神社は領主に随従する必要があったのか?というものです。

菩提寺の例のように、大名本人が信仰していたり、世話になっている寺社であれば、領主の移封とともに新しい土地へ移るのも自然と言えると思います。
しかし、先にも触れたwikipediaの記事にもあるように、稲荷は、一般的に庶民の神としての性質が強い信仰です。
本来であれば稲荷社は、領主が変わろうと動かない領民に根付いているはずのもので、それなのに全く別の土地に移ることを選び、なおかつ自治(『作端史』に記述のある随従の条件。通常、当時の寺社は領主からなんらかの支援を受けて創建・運営されるが、そうした支援なしに自力で檀家や氏子を集めることを指す)の道へ進むというのは、どうにも違和感があります。

もちろん、治俊本人が創建したお社であれば、その本人の移封に伴って付き従うというのは慣例として一般的にあったようではありますが、治俊の領下に稲荷信仰の痕跡がほとんど残っていないことなども踏まえるとそれも疑問を挟む余地があります。

こういった内容を踏まえて想像を膨らませていくと、丁原家は長月の地では稲荷神社を開いていたわけではないのではないか?という仮説が浮かんできます。
もっと大胆に考えると、長月から作端へ移る際に武士の身を追われた家臣が多くいたという点も踏まえて、実は長月藩の家臣であったのではないか?というところまで想像することが可能です。
忠誠心から随従を願い出たが家臣のままいることは叶わず、山伏の出自を持っていたので、新天地では稲荷神社の祭祀者に転身した、というストーリーです。

僕自身、歴史の専門知識などは何もないので、これは全く素人の妄言に過ぎない話ではあるのですが、まあ念のため、長月藩島本家の家臣にも、丁原の痕跡探しの手を伸ばしてもよさそうです。

長月市立図書館へ


という具合に整理がついたところで、長月への旅の2日目(最終日)、僕は、長月市で最も大きな図書館へやってきました。

今回主に狙う資料は、長月藩の島本家統治下における家臣・寺社の祭祀者の名前と長月市内の地名、島本家に伝わる文書のうち、昨日当たれなかったものです。
今日は最初からレファレンスカウンターにお願いしつつ、自分でも『長月市史』から手を付けていきます。


まずは近世、島本家の治世下のところを見ますが…昨日見た内容と大きな差はなさそうです。宗教のところにも、めぼしい情報はありません。
地名の由来が書いた部分は、市の歴史なので町名に関する内容しかありません。町名に手がかりがないのは既に分かっています。

司書さんが島本家についての記述がある書籍をいくつか持ってきて下さいました。しかし、「なぜか長月藩島本家の代々の墓が母の実家の近くの寺にある」といった情報くらいしか、目新しいものはありません。

というか島本家、父方の先祖にとっての領主な上に、母の実家の近くに墓あるのかよ。両親の「君の名は。」みたいでなんか嫌だな。


自分がそれを伝えた直後の家族LINE。かわいそうな父。

と、読んでいると、司書さんが一枚の紙を持ってきました。曰く、「有用そうな資料で書庫内にしかないものがあるため、申請書を書いてほしい」とのこと。

言われるままに書いて出し、その資料を受け取ると、その資料とは、江戸後期に長月藩の藩主(島本家が出て行った後の家)によって編纂された「馬府史」というものでした。馬府というのは長月藩のある場所の旧国名に由来する名前で、要するにこの地域の歴史書です。
その本自体は昭和の早い段階に原書の内容を移す形で出版されたものではありますが、それでも大変に古く、貴重な資料と思われます。開架で並べられていないのも納得です。

別に専門家でも、市民ですらもない人間の趣味の疑問でしかないのにレファレンスってこんなに親身になってもらえるものなのか…と感動しつつ、資料の目次を開きます。
気になる個所はいくつもありますが、最も重要そうなのは「分限帳」と呼ばれる部分です。
分限帳というのは、一言で言えば藩の家臣名簿みたいなもので、その藩に属する武士が、どのような役職で、どれだけの給与を得ているかが一覧になって記載されているものです。
要するに、これに載っているかどうかで家臣であるかどうかが一発でわかるというもので、先祖に関する調査なんかを行う際には非常に重宝されるものだそうです。

ではこれを見れば一発で昨日考察した仮説を検証できる…かというと、そうではありません。
実は、長月藩下で作られた分限帳のうち現存するものはこの『馬府史』に記載されている一種類のみ。『馬府史』は島本家の次の藩主が編纂したもの、という訳で、島本家治世下の家臣とはメンバーがほぼ完全に入れ替わっていると考えられるのです。(そもそも島本家の時代から100年以上が経ってから作られています)

そういう訳で、非常に貴重な資料かつ、自分以外の人が同じことをしようとするなら役立つ可能性が非常に高いであろうこの『馬府史』でしたが……。
目を皿のようにして分限帳に目を通しても丁原も長原も見当たらず、その他の部分についても手掛かりなし
もちろん全編漢文ですので、全てに目を通せたわけではありませんが、時代や内容の関連から手がかりが見つかりそうなところは一通り見て、何も得られた情報はありませんでした。

そして困ったことに、午後はこの本にほとんどかかりきりのまま、もう帰らなくてはいけない時間になってしまいました。

ただまあ、昨日から今日にかけて読んだ島本家関連の書籍のほぼすべてが、この『馬府史』を出典の一つとしていたということもあり、正直、これの中に手がかりを見つけられなかった今は、一種最適な諦め時ということもできそうです。

今後も消極的には調べを進めるつもりではあるものの、長月に丁原の痕跡を探すことに一旦の区切りをつけることを決め、僕は帰路に就いたのでした。

一応夏の旅行のつもりだったのに、思えばずっと図書館で過ごした一泊二日でした。
直接お礼も言いましたが、どちらの図書館でも本当に親切に対応していただいた二人の司書さんには、この場で改めて感謝の意を表したいと思います。

土花の地に痕跡見つかる?

地名読み方辞典

長月でルーツをたどることを一旦諦めた僕は、今までとは少し趣向を変えた視点をもって探し方を試してみることにしました。
その視点というのは、「そもそも長原と書いてちょうはらと読む名字はどこにいるのか?」というものです。

祖父の聞いた話によれば、自分たちの家系は元々その氏族の一員だったはずです。しかし、名字情報サイトなどには存在自体の記載こそあるものの、具体的にどの地域に何人ぐらいが存在しているのかなどは書いてありません。

オサハラ、チョウハラは稀少。

https://name-power.net/fn/%E9%95%B7%E5%8E%9F.html

先述したように、島本家は大名・藩主として様々な地域を渡り歩いた経歴があり、その方々で家臣や領民を随従させたり、逆に命を授けてその地に留めさせたりしています。
そうした遊行の地のどこかと「ちょうはら」姓の分布する地域に被りがあれば、その場所が自分たちの名字のルーツと関係がありそう…と言ってもおかしくはないはずです。

ただ、特定の読みの名字が存在する地域を直接調べるというのはなかなか困難であり、なおかつ、現在のその氏族の居住地が元々の出身地であるとは限らないという問題もあります。
そのため、僕はまず、地名を当たることにしました。長原と書いてちょうはらと読む地名が全国のどこに存在するかを確かめれば、その地域に同じ読みの家が存在する、あるいはかつて存在した可能性は高そうです。

その調査のため、僕は再び最寄りの図書館にやってきました。これまでの調査のうち一番の成果を『作端町史』からもたらしてくれたあの図書館です。

特定の読みの地名を調べる際には、「地名読み方辞典」というジャンルの書籍を当たるのがよく、このジャンルには複数の出版社からいくつかの辞典が刊行されています。
この図書館には以下の3つが所蔵されていたため、僕はこれらを開いて「ちょうはら」の文字を探しました。

※大日本地名辞書は正確には「地名の読み方辞典」ではないが、読み方索引がついているので同じ目的で使える

ところが、ここで悲しい事実を突きつけられます。「ちょうはら」と読む地名がないのです。
「ちょうばら」などの表記ゆれを考慮しても、該当する地名は出てきません。3冊いずれをめくっても、です。
腹積もりとしては、これでいくつかの地域を発見し、それらの地域の中からかつての島本の領地に近いものを絞り込むつもりだったのですが、計画が完全に破綻してしまいました。
これで万事休すか…と思われたところでしたが、ここで僕は、ある可能性にふと思い当たりました。

これらの辞典は小字(こあざ)まではカバーしていないのでは?

ある程度以上の都会に住んでいる方には馴染みがない概念かもしれませんが、地域によっては、地名の中に「小字」という小分類が存在するところがあります。
これは明治以前の古い時代に、村の中での地域の呼び分け方として用いられていたもので、自治会や地縁団体の名前としてなど、地元の人は生活の中で今も使うことがある地名です。
ただし、多くの場合、地名として一般に認識されるのはかつての村名までの部分であるため、例えば住所は旧村名+番地の表記になっており、小字として別であっても郵便番号は同じというケースがよくあります。(「▲▲町○○1215番地」みたいな番地の数字がめちゃくちゃ大きいパターンは大体このケースです。)
そして重要な点として、この「小字」は町名なんかよりも更にローカルな分類になるので、「地域の有力者の××さんの家があるから小字名は××」というような地元密着的な命名があり得るのです。
実際、自分の現在の居住地はまさにこの「住所は旧村名+番地までだが、地域の人は小字でさらに細かい区分を識別している」という地域なのですが、近隣の小字の中に名字由来と思われるものが一つ存在します。

思い当たった可能性を確かめるために、その自分の知っている名字由来の小字の名前を三冊それぞれで確認すると…やはり見当たりません。

やはり、これらの辞典が指す「地名」は、概ね住所表記に登場するものの範囲に限られるようです。
つまり、まだ「小字」には手掛かりが残っている可能性があるということです。

そうは言っても、これらの辞典が小字をカバーしていないということは、そのまま「特定の読みをする小字を探すのはめっちゃ難しい」ということを意味します。読み方から絞り込める地名辞典が他に見当たらず、そもそも小字を検索する方法があまり存在しないからです。

一応、小字の情報の収集の仕方を調べてみると、すごくよくまとまった記事がヒットはします。

図書館でのレファレンスの記録なんかもあります。

どうやら、書籍に網羅的な資料を求めるなら、『角川日本地名大辞典』が良いようです。

ただ、これらに書かれているのはいずれも、「特定の地域にある小字を調査する方法」です。
特定の条件を満たす小字を地域横断的に全国から探す方法についてはちょっと情報が見当たりません。

まあ、とは言っても今回の目的を追求する道がないわけではありません。島本家が領有していた地域の辺りの小字を順番に調査していけばよいのです。
島本家が長月の前に藩主を務めていたのは土花藩。現在の地名でいえば、中畑県土花市の市域に当たるところです。

ということで、『角川日本地名大辞典』の「中畑県」の巻を見てみましょう。
幸いこちらは、小字の一覧が巻末にある巻でした。土花市の辺りの地域に目を通していくと…

…… 中山井 落合 長原 下長原 川上 ……

いきなりありました。

ただ、残念ながら、この地域の小字には読み仮名が振ってありません。普通に「ながはら」である可能性を否定できない(というかその方がはるかに可能性として高い)ということです。
順序も恐らくは位置関係に基づいて並べられているような感じで、読みの参考にはなりません。
この『日本地名大辞典』、小字の読み仮名は収集できたもののみ掲載する方針らしく、同じ市内でも読みが載っている地域とない地域があり、この辺りは対象外のようです。

ひとまず、この「長原」「下長原」という地名について情報を得るため、「土花 長原」などの語句でGoogle検索してみると、どうやら「下長原橋」という橋があるとの情報がYahoo!ロコにありました。
どうやら川ではなく、谷に架かった橋の様子。Googleマップには認知されていない程度の、何の変哲もない橋のようです。
橋なら現地には平仮名で名前が書いてあるのでは?と思い、場所に大体のアタリを付けて、ストリートビューで確認しようとするも、橋自体は見つかりましたが、画質の問題でそういうプレートがあるかどうかすら判別できず。

その後もいろんな検索ワードで調べているうちに、「農林水産省の農地ナビはめちゃくちゃ詳細に小字の場所まで分かるので良い」という気付きを得たりはしましたが、残念ながらこの場所の読みは分からずでした。

これ以上の調べ方は現時点で見つからず、土花市は1000キロとかのレベルで離れている地域なのでさすがにちょっと足を伸ばすという訳にもいきません。
追い込まれた僕は肚をくくることにしました。


よし……。市役所の人に聞くか。



土花市役所

たったそれだけのこと?と思われるかもしれませんが、これに覚悟が必要だったのは、何も作端の時にも発揮したような僕のコミュニケーション特性のせいだけではありません。
僕が自分の名字のルーツを知りたいのは全くの個人的興味であって、これが明らかになったからと言って何も社会的価値を生む訳ではありません。
なおかつ、僕は土花市民でもないので、市役所の人に何の価値も提供していません。
加えて、別にそもそもこんな疑問に答えることは市役所の仕事でもありません。要件を伝えたら「???どういうお問い合わせですか???」と言われてしまう可能性だってある訳です。そうなったらただお手を煩わせるだけになるし、僕も泣いちゃいます。

最後、勢い余って本音が出てしまったような気もしますが、ともかく、この選択は僕にとって一大決心であったということであり、気軽に聞いていいもんでもないというのはちゃんと分かってるというのがここで伝えたかった内容です。

ともあれ、土花市役所に電話をかけます。女性の職員さんが電話口に出られました。

職員さん「はい、土花市役所です」
僕「あの、すみません。私地名の歴史について個人的に調べているものでして、土花市のある地域の町名の下の小字の読み方を知りたいんですが、こういったお問い合わせが市役所で良いのかどうかというのも分からず、ひとまずお電話差し上げたような形なんですが…」
職員さん「はい。えー、地名について調べられていて、市内の地域について知りたいということでしょうか?」
僕「はい、そうです。すみません、急なお電話で…」
職員さん「いえいえ、とんでもないです。少々お待ちください。」

改めて見返すと、僕のダメさと職員さんの有能さがすごいですね。
めっちゃ「の」が連続した分かりにくい長ゼリフを早口で一気にまくし立ててるのに、必要な情報を一発で吸い上げて下さっています。

そんなことを言っているうちに、別の職員さんが電話口に立たれました。

職員さん「お電話替わりました、文化課の坂本です。」
僕「どうも、お世話になります。」
坂本さん「地域の地名の読み方について調べられている、とのことですか?」
僕「はい。地名の中でも、町名の下の小字の部分の読みがちょっと調べられなくて、お電話させて頂いたのですが…」
坂本さん「どちらの町でしょう?」
僕「三津山町月山地区のナガサの長に、ハラッパの原と書く地域です。こちらがながはらと普通に読むのか、あるいは別の読み方などがあるのかを知りたいです。」
坂本さん「かしこまりました。ちょっと資料のほうを確認して来ますので、少々お待ちいただけますでしょうか。」
僕「!!!いいんですか!ありがとうございます!」

めっちゃ優しい。

図書館の司書さんといい、さっきのお姉さんもこの坂本さんも、世の中の人たち、こんな道楽でちょっと興味を持っただけのやつにこんなに優しくて良いんでしょうか?
文化課と名乗られたのは本当に事実なんですが、市外居住者のこんな質問に回答するのは、全然課の業務の範囲ではないはずです。
ご厚意に本当に心から感謝申し上げます。

坂本さん「お待たせいたしました。」
僕「ありがとうございます。」
坂本さん「確認したところ、現在市として持っている資料では、正式には『ながはら』という読み方が用いられていまして、地域の方はもしかすると『ながばら』と濁って読まれていることもあるかもしれないという感じでした。」

でも、ダメでした。

これで「ちょうはら」「ちょうばら」の読みであれば、記事としてすごくキレイにまとまるんですが、やはり現実はままなりません。

もちろん、「地名はながはらだがそこにいた氏族はちょうはらだった」「かつてはちょうはらと読んでいたが明治以降にながはらと読むようになった」という可能性もありますが、一旦はこの筋から追うのは諦めるほうが賢明でしょう。

僕は坂本さんにできるだけ丁重にお礼を伝えて、電話を切ることにしました。
実は、ここで諦めることにしたのは、次の可能性の手がかりをすでに見つけていたからです。

小野県三淀郡夕凪町長原青年会

この手がかりを見つけたタイミングは、土花市の長原の読み方についてGoogleでいろいろと検索していた時に遡ります。農地ナビなんかを発見していた頃です。

「長原 ちょうはら」という検索ワードでさっきの地域についての記述が出てこないかと探していた時、僕は表示順の2ページ目あたりで、あるInstagramのアカウントを発見しました。

アカウント名は「長原青年会」。プロフィール欄には「小野県三淀郡夕凪町長原地区の住民が集まってお弁当の販売などを行っています。」とあり、活動の様子やイベントへの出店告知を配信しているアカウントのようでした。

そしてこのアカウントがこの検索ワードでヒットした理由は、スクリーンネーム(一般的にはIDなどと呼ばれる、@の後に英数字が続くやつ)にありました。スクリーンネームが、「@choubara_seinen」だったのです。

ちょうばら読みの地域が実在している!!!

厳密には、僕の名字とは「はら」の読みが濁るか濁らないかという違いがありますが、さっきの坂本さんの話を思い出すまでもなく、この程度の表記ゆれはよく発生するものです。

住所に登場するレベルの地名としてはどうやら存在していないらしい「長原(ちょうばら)」が、小字の名前として実在していたのです。
しかも、場所は小野県。小野県といえば、中畑県と陸続きのお隣です。

もしや、ここもかつては土花藩の支配域だったのではないか?

そう思ってこの地域の地理的な位置を調べてみたところ、下の図のような関係でした。


さすがに距離的に藩の領地内ではなさそう……しかし、この二つの土地の間には山地があります。

土花市は合併を繰り返して広い市域を持つようになった自治体ですが、土花藩の藩主の居城であった地域周辺は山がちな地形。
そして、この小野県淀郡夕凪町の長原も山の中の集落のようです。
そしてこの二つの土地は、いくつかの連なった山々で結ぶことができます。

しかも俺の先祖、山伏じゃん!

山伏は山の中に入って修行をする道者。日頃から山を歩き回るので山の道に通じており、大名などから道案内や隠密業務を仰せつかることもあったほどだとか。

つまり、山伏であれば、いくつもの山を越えて土地を行き来することはざらにあったはずです。

これは本当に、自分の名字の本当の出自がここにある可能性があるのでは?

つまり、「この夕凪町の長原(ちょうばら)から山を抜けて土花藩の領地まで来た山伏が、藩主の島本家に(家臣あるいは領民として)仕えるようになって長月の地へ随行し、更に治俊が長月を後にする際にも付き従って作端へ至った」というストーリーです。
そしてその物語の途中、祖父の聞いた伝承の通りに、何らかのきっかけで丁の字を貰って丁原と称するようになった。というのが、この物語から導ける丁原姓誕生の理由です。

ただし、これはあくまで仮説も仮説。しかも素人が断片的な情報をパッチワークした上で間を細い糸で無理やり繕った、ほぼ妄想に近いような説です。
どこまで行ってもこの説がちゃんと信ぴょう性を持つことはない、というのは諦めた上で、それでも少しでも自分の中でのもっともらしさを高めるために、何かもう少し証拠になる情報を得たいところです。

しかしまあ、インターネットでさらに情報を集めようとしても、土花市の方と余り状況は変わらず。現地に行こうにも、やはり簡単に足を伸ばせる距離ではない。
何か、どうにかして情報を得る方法はないのか……何か……何か。


このDM、めっちゃ怖っ。

突然、知らん奴が知らんことを急に早口でまくしたて出しています。しかもよくよく聞いてみれば、なんか地域の情報を聞き出そうとしています。名字?神社?なんかの犯罪に巻き込もうとしてる?

すみません。山で二つの地点を結べると気付いた勢いで居ても立ってもいられず、調べてもそれらしい情報が出てこない状況に我慢が利かなくなって、思わずご本人のInstagramアカウントにDMを送り付けてしまいました。

ちなみに、これを送った時の僕は、「これだけだとなんか内容も内容で不安だし、言ってることが本当か信用してもらえないだろうからなんか嘘じゃない証拠も送りたいな…」と思って、名字以外の部分を塗りつぶした保険証の写真を用意していました。送る前に正気に戻ってよかった。

自分でも文中に書いていますが、こんなもん、答える義理も全くないし、内容もちょっと怪しいしで普通に考えたら絶対無視するようなメッセージです。仮に僕がこんな感じの団体のアカウントを運営していて、グラビアアイドルとNPB球団の公式しかフォローしてない見ず知らずのアカウントからこんなメッセージを受け取ったら絶対に反応しません。


この世には優しい人しかいない。

基本的にこの調査は何も生産しない活動なので、極力誰の手も煩わせずに進めたいと思っているのですが、司書さん、市役所の方、そしてこのアカウントの方と、関わった方々はもう本当に、信じられないほど親切に対応してくださいます。

今わかることは特にないとのこと。それでも、何か知っているかもしれない人にわざわざ聞いて下さるとのこと。
本当に、こちらから何かできるわけでもないのに、過分なご厚情に頭が上がりません。
仮に聞いた結果何も有用なことが分からなかったとしても、こんな失礼な内容のメッセージを読んでそれだけの手間をかけて頂いたということにひたすら感謝したいです。


長原(ちょうばら)さん、いました。
一番大事なところを伏字にせざるを得ないのが心苦しいのですが、なんと、この地域名と同じ姓を持つ人が過去に住んでいて、そのお墓が確認できるとのこと。

もちろんこれが客観的に見て有力な証拠かと言われると、そうではないでしょう。しかし、僕はこのお墓の、そしてかつての住人の存在をもって、先ほどの仮説をかなり信じようという気持ちになりました。

僕の先祖はこの長原地区を出自とする山伏で、島本家と縁あって何度か住所を移し、やがて丁原と名乗るようになって作端の地に落ち着いた。ほかの人を説得するには根拠が十分な説とは言えませんが、僕は今後これを覆すような何かが見つかるまでは、この説を信じて生きていきたいと思います。

今年今すぐにとはいかないけれど、近いうち、数年以内にはこの地区に旅行に行って、もしかしたらご先祖様かもしれないこのお墓にぜひ手を合わせたいものです。
その時はこのアカウントの方にも事前に連絡してお礼を言いたいし、それから、長原青年会の皆さんが作られているお弁当も買って食べようと思います。

総括

いろんな方向から、自分の考えられる限りの手を尽くして進めてきた今回の調査でしたが、振り返ってみると、やっぱり、(少々偉そうな言い回しですが)「人」に恵まれたように思います。
二人の司書さんが教えてくれた沢山の文献があったからこそ、一つの方法がダメでも完全な手詰まりにならずもがくことができましたし、手を借りなければそれ以上進めないというところで親切に対応してくださった市役所の方、青年会の方は文字通り僕にとっての救世主でした。これらの方々には、いくら感謝の意を示してもまだ示し足りません。また、本当はちゃんと名前を出して感謝をお伝えすべきところ、自分の勝手な事情でそれを行っていないこと、本当に申し訳なく思っています。

なんの素養もない人間のずさんな調査を、素人の妄想でつなぎ合わせたこの乱文も、右上の表示を見ると2万文字以上となったようです。
正直なところ、web記事としては成果が上がらなかった部分を経緯ごとバッサリと切ってしまってもっと簡潔にまとめたほうがずっといいのでしょうが、「こう考えてこうやった結果こういうことになった」という過程を記すことで「やるだけやった」ということの証拠としたり、あるいは不遜ながら、少しでも同じようなことをやろうとする人の役に立てるかもしれないと思って極力全部書き起こすこととしました。

どれだけの人がこんなものを全部読み通してくれるのか、ちょっと想像もつきませんが、もし今もこれを読んでくださっている方が一人でもいたらすごく嬉しいなあという思いです。


ところで、実はこの丁原という名字を考察するにおいて、重要情報を一点、まだ検討できていないことにお気づきでしょうか。

それは、「なぜ丁の字が用いられたのか?」という点です。

僕は元々長原だったものが丁の字に改めたという説を信じていくことにしたわけですが、何らかの理由で(伝承によれば手柄を立てて)字を変えるというときに、一体なぜこの「丁」という字が選ばれたのか?という問いについては、ここまで何も参考になる情報は出てきていません。

そして正直、これは答えの根拠を何らかの史料から調達するのはほぼ絶望的といっていい問いでしょう。
ドンピシャでいきさつなどが書かれた文書でも残っていれば別ですが、これまでさんざん見てきたとおり、そんなものはおそらく存在していません。

なのでこの問いに関してなにかを言おうとすると、どう頑張っても憶測の域を出ないものになってしまいます。

そして、僕が今から語ろうとしているのは、その憶測の域を出ないものの中でも特に根拠が希薄でお粗末な、妄想、虚言、あるいは出来の悪い物語の類のものとなります。ここまでの調査内容も大概なものでしたが、それらとも比べ物にならない水準のものです。この先をもしも読み進められるなら、どうかそれをご了承ください。

付記

何度も触れた通り、私の先祖は代々山伏であったそうです。山伏であった家が、いつしか島本家に付き従うようになり、作端の地に神社を開きました。

作端に移る前に島本家が治めていた長月に稲荷信仰の痕跡が希薄なことから、長月藩の頃のご先祖様は島本家家臣として仕えていたのではないか?という根拠に乏しい説については、そちらの項で触れました。そちらは、1/10にも及ぶ大減封の為雇われ続けることが叶わず、作端では神社の祭祀者に身を転じたのでは、というストーリーでした。

ところで山伏というのは、山を歩き回って修行をする行者です。その性質上山の道に通ずるため、道案内や、隠密業務に適した存在として大名に頼られることもあったとWikipediaにあります。

もしも、元山伏の身から大名に雇われるとなれば、真っ先に連想される形としては、それら山伏が得意とする業務を任される形態でしょう。隠密業務を主とする仕事……。つまり、忍者です。

忍者と山伏の関係が深いということ自体は、そんなにトンデモな話でもありません。生活の形態にも身に着けている技術にも拠点とした地域にも類似性があるので、名のある忍者の出自は山伏であった、という説は多くのところで見ることができます。

もしも丁原家が島本家お抱えの忍びであったとすれば、自治を求められながら領主に随従したのに開いたのは庶民の神である稲荷神社であったという疑問も、一介の神社の祭祀者がどうやって殿様から名前を貰うような手柄を立てたのかという疑問もすっきりと片付きます。
神社の祭祀者ではなかったから手柄を立てることが出来たし、作端に移封となった島本治俊は、何らかの名目を立てて近くに置いておきたかった、という訳です。
移ってから稲荷を開いてそれが現代まで維持されているのは、江戸の泰平の時代が長く続くうちに、忍びとしては用済みになったということもあるかもしれません。

ところで、島本家の大本の出自は、口蔭の一部を所有する小大名でした。口蔭はほとんど今回の話に関係がなかったので特に印象がない地名かと思いますが、忍者というキーワードがあれば話は別です。
口蔭には、忍びの里として全国でも120玉の指に入る程度には名の知れた、丁谷地域が存在します。

丁谷地域は、出てきた当時の島本家の支配領域にあるかと言えば微妙な位置です。
しかし仮に丁谷の忍を戦国期の島本家が頼りにしていて、それが家中にひっそりと伝わっていたと仮定してしまえば、少し時代が下った後、同じように忍の職務で功を挙げた家臣に、彼の地にあやかった名を授けてもおかしくはないのではないでしょうか?

この度はご苦労であったな。この働きに応えて何か褒美をやろう。…そうか、そなたの姓は長原と言うのであったか。我が島本の家はその昔、丁谷の忍に大いに助けられたと聞く。この丁谷の地にあやかり、そなたに丁原と姓を改めることを許そう。これからもこの名に恥じぬよう努めるのであるぞ。

というようなことが、いずれかの時にあった……などというところまで、想像をたくましくすることができてしまいます。

何度も言います。ここまで語ってきたのは、今までぶちあげてきた仮説の中でも特に無根拠で無責任な、ほぼ完全に創作に過ぎない話です。
さすがにこちらのお話に関しては、語っている僕自身も信じてはいません。
調べていった情報をつぎはぎしたらこんな妙なお話が作れましたよ、というだけのものです。くれぐれも、そういう性質のものとして受け取って頂きたいと思います。

そういえば、忍者という仕事は、手裏剣を投げたり派手な忍術を使ったりというのはほとんど創作で、実際には情報を探る諜報活動であったり、密書と呼ばれるような重要情報が書かれた巻物を受け渡す地味な業務がほとんどであったそうですね。


そうか。巻物を大事にしてた仕事なんだ。巻物ね。ん?巻物……?



はじめまして。ノサダと申します。
好物は納豆巻きとヨックモックのあれ、本名の名字は丁原(ちょうはら)です。

https://note.com/kanesada2/n/n1f3fe3a251f3

納豆巻き……。

ヨックモックのあれ……。

巻物…………。





遺伝子が、「そう」させていた…………?








信じるか信じないかは、あなた次第です。


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