見出し画像

若芽に光

3日前から連絡が途絶えている。いつもはうるさいほど話を聞けとまとわりついてくるのに。
くーちゃんはこうして時々燃料が切れてしまうことがある。振り回すだけ振り回して、自分は雲か霞のようにぱっと消える。かと思えば、野良猫が腹を空かせてすり寄るようにいつの間にか現れる。付き合いは長いけれど、いつまで経っても掴めない人だった。

そんなくーちゃんが連れてくる人はみんなくーちゃんみたいに掴みどころのない人たちだった。つまり、私から見れば信用に足らない。
「ねぇ、次はどこに流れ着いたの?」
「ん、それなり」
こうして語りたがらない時は現在進行中ということだ。語らない方が面白いならくーちゃんは絶対に教えてくれない。語る方が面白くなったら、聞いてもいないことまで全部話してくれる。
面白いか面白くないか、浅瀬で軽石が転がるように流れに揺蕩いながらそれを見極めている。

前にくーちゃんは「あたしは好奇心の奴隷だからな」って言ってた。要は興味が湧いたらそれに全BETしないとムズムズするのだ。それが安全な賭けかどうかも判断できずに、注ぎ込む。そんなことを続ければ当然痛手で負う(くーちゃんは少々と言うが、私は泡吹いて倒れる)こともある。それでも3日後ぐらいには、あっけらかんとしているのだった。


生存未確認な5日目、ようやく天岩戸から自ら這い出てきたくーちゃんは「最近のおすすめ何?」なんて呑気に聞いてくる。
心配して損した。いつもこうだ。
ちょっと面白くなくて「私が勧めたの読まないじゃん」と投げやりに言うと、喉の奥をくつくつと鳴らしながら静かに笑って「いいから、いいから」となおもせがんでくる。
くーちゃんはこういうところがずるい。人の気なんてお構いなしに土足で上がり込んでくる。気まぐれにすり寄る無邪気さや奔放さを眩しく思ってしまう。

「くーちゃんはさ、桐野夏生とか、無意識の意識みたいなとこに直接手を突っ込んで揺さぶる作品を好きって言うけど、私そういうの読めないもん」
「だね。でも『ナニカアル』は揺さぶる以上に、ほのかな愛情みたいなものが漂ってすごく厚みがあるのよ」
「不確定さとか悩ましさが混ぜこぜなの好きだよね。なんでそういうヒリヒリするところに気持ちを置くの?」
「みんながみんな洗剤のCMに出てくる真っ白なシーツみたいなさっぱりした感情ばっかりじゃないと思うんだよね。悩みの中に愛情があったり、憎んでいるのに許したくてたまらない日があったりいつも揺れてる。そういうのって面白いでしょ」
そう言うくーちゃんはここではないどこかを見つめる目をしていた。
「わかんないよ。私は愛情を真っ直ぐ向けられて、それに真っ直ぐ返してって関係がいいもん」
「あーさんって真っ直ぐ返ってこなくなると、いつもぐらぐらになって自分からダメになるじゃん。そうやってお互いの気持ちを机の上に出し合うの、窮屈じゃない?」
「相手のことわからないまんまで飛び込んで、わからないまんま触れ合って、はっきりさせないまんま続ける関係の方が理解できないね」
くーちゃんは「野球部の監督とか?」と笑っているけど、全然笑いごとじゃない。

慰安旅行中に酔っ払っていい感じになったからって、一回り以上も上の方とかなりしっかりとキスしてきたなんて本当に信じられない。好奇心の奴隷でも、分別のついた大人であってほしい。あと多分これも3割くらいしか話してくれてないはずだ。怖いからそれ以上は聞かないが。
「メロンソーダのお味でしたっけ」
「そ。こっちは苺味だって言われてね。楽しかったよ。遠目では硬そうな筋肉に見えたのに結構柔らかくてさ。部屋戻ったら同期に事情聴取だって天空露天風呂連れていかれて。深夜3時に露天風呂で笑ったの、最高だったね」
「何がそんなにいいの?」
「本当の気持ちがどこに置かれてるかなんてよそにほっぽって、その瞬間はあたしだけを見てる瞳とか、飛び込みたくて重ねる言葉とか、ね。知りたいのに知りたくないのも許してくれる。確かに触れたのに、なんにもわかんなかったって星空眺める夜とか、とっておきの日って感じ。たまらないよ」
刹那的な思い出ばかりを重ねる彼女が心配になってつい「愛し愛されるっていう、とっておきはないの?」と聞くと「あんまりそういうの向いてないかな」とからりと笑うのだった。
「愛してるよとか君だけなんだとかって言葉で余計に飾りつけて、とっておきのセッションに手垢つくのもね。一瞬一瞬の反応の方が雄弁だし、興味が尽きない」
わかるようなわからない話に唸るとくーちゃんは、得意そうに私の横をすり抜けて部屋に戻っていった。


くーちゃんはいつも先のことは考えてないとか、人には興味ないとか、愛とかわかんないとか言うけれど、気にしてなかったり考えてなかったりするフリをしている。と思う。
だって、私の言ったことや出会った人のこと、大切にしていた出来事を私よりも覚えているからだ。
本当は刹那的なんかじゃなく、向かい合う関係を作れると思う。そんなことを思いながらくーちゃんが買ってきたものを整理していると、懐かしい箱が目に入る。
ほら、これもよく覚えている。2、3日前に上司になんやかんや言われたことを話したからだ。その時にフルーチェって言ったのを覚えていて買ってきたのだろう。くーちゃんは興味があることにしか触手が動きませんとツンとしたことを言うが、時々猫が物陰から様子を伺うようにこちらを気にする視線を投げてくる。
あまいぜ、くーちゃん。
私だけが気づいていると悦に入って作り方を見ると、材料は牛乳と書かれている。袋の中に入っているものを見ると、低脂肪乳があった。
あまいぜ、くーちゃん。

恨めしく2階にいるくーちゃんに声をかけるが返事がない。呆れながら、コンビニへ買いに走る。きっと伝えたところで買い直しが面倒だといつまでも放置するに決まっている。


返事がないまま部屋に入ると、ベットの上にいくつも画集を開きっぱなしにしてその横で窮屈そうに寝ていた。器用なものだと思いながら、ベットからいよいよ落ちてしまいそうな一冊を机に移動させる。ジュリアン・オピー、一緒に行った展覧会のものだった。
サイトの画像ではさほど大きくないと思っていた美術品は、天井に迫るほどの巨大なものも多かった。私はそれらに圧倒されるばかりだったが、くーちゃんは言葉少なに、削ぎ落され最小の要素で描かれる作品をいつまでも眺めていた。その時、くーちゃんの心の中では化学変化がいたるところで起こっていたのだろう。じっと見つめる瞳が幾重にも輝いていた。
彼女の世界は私には計り知れないが、きっと心が締め付けられるように繊細で豊かだろう。
そしてこれは私の希望でもあるけれど、確かで柔らかな愛はすでに彼女の中で眠っている。あとはそれが芽吹くだけなのだと思う。せめてあと少しで顔を出すだろうその愛が手折られないことを願う。自分が思っているよりずいぶん鈍い彼女は、私が焦れる思いで見守っていることに気づいていないだろう。だから背中を押してあげられたらと思う。

フルーチェができたと声をかけると、くーちゃんはゆっくりと目を開けて恥ずかしそうにはにかむのだった。

誰かのどこかに届いたらいいなって思って書いてます! サポートいただけたら届いてるんだなって嬉しくなります。