エゴと下心と刻まれた空の記憶

進化とは何か。どうやらそれは生物単体あるいは生物集団の形質が世代を経る中で変化していく現象のことで、今現在クライマーと言う種もその進化とやらを求められているらしい。

飛べ。今こそ飛べ。飛べないクライマーはただのクライマーだ。飛べるクライマーはなんだ。知らん。多分進化したクライマーだ。

・・・

「中途半端が一番ダメだから。思い切ってこういう感じで気軽に飛んで。」

ふわっと羽根のように細い身体が宙を舞う。コーディネーション入門編のような課題で見目麗しい女性クライマーが、進化から取り残されつつある二人のおじさんを指導していた。少し外側に開いた短めのポニーテールがトレードマークなので、ここではホウキちゃんとしよう。

私は志願して指導を受けているわけではなく、言うなればホウキちゃんのエゴに巻き込まれる形でコーディネーション課題にトライしている。「なんてこった。完全に重力場が狂ってやがる。」と、横で独りごちているのは、何かと騒がしい男、サトウだ。

ホウキちゃんに促されてホールドに飛び付いたサトウが大きな声と共にマットへと落下する。「できる気がしないんだけど」などと言う弱音に対して「絶対できるから」と、おじさんの持つ無限の可能性を信じ続けるホウキちゃん。

ホウキちゃんは見た目の麗しさとは裏腹に、いや裏腹でもないのだが、思ったことはそのまま口に出す、謂わばサバサバ系女子だ。更にはポジティブで、妥協知らずで、正義感と責任感が強くて、面倒見が良く、何故かおじさんを育てることに生き甲斐を感じている節がある。

サトウなどはそうしてホウキちゃんと共に過ごす時間を楽しんでいるようだが私は違った。

はたと別の壁に目をやれば蝶よ花よと育てられた可愛らしい3人のおじさんたちがカチ課題の下でキャッキャと戯れあっているので、そちらに混ざりたかったのだ。

サトウが「ホウキちゃんが教えてくれるから一緒にやろう」などと私に声をかけなければ、今頃あの花園でゴミカチを摘みながら「痛いねぇ~」「ねぇ~」なんて、笑い合っていただろうに。余計なことをしてくれる。

例えばこれがエロ漫画ならば「この課題が登れたご褒美に・・・」みたいな甘い展開があるのかもしれないが、そこはホウキちゃんである。以前彼女のポニーテールを結ぶ仕草を見て軽はずみに「興奮する」などと発言したクライマーがいたが死んだ。いや、いたような気がするが、今はその記憶ごと封印されている。

それは冗談としても外でゴミをポイ捨てした若者に対して激昂し、理論でガチガチに武装した武装ホウキちゃんが、残弾を打ち尽くすまでトリガーを引き続けるのを見たことがあるから穏やかではない。

更にその時は屈強なクライマー数名も帯同していたから、若者が感じた恐怖は筆舌に尽くし難いものだっただろう。まぁ、自業自得だ。

あの出来事は私の中に未だに深く刻み込まれており、ある種ホウキちゃんへの苦手意識として今も残っている。つまりは囁くのだ。「彼女と一定の距離は保つべきだ」と、私のゴーストが。

そういえばサトウはあの場には居なかったんだったか?ホウキちゃんの指導を受けると言うだけで鼻の下を伸ばしながらご飯を三杯食べかねない男だから、居ても居なくても関係ないのかもしれないが。

例え私が今この場を離れたとしても武装ホウキちゃんが降臨することはない。それは当然としても、この状況が言葉通りの甘い状況ではないことは伝わるかと思う。さながら碇司令に睨まれたシンジ君だ。

「二人ともそんなに距離を意識しなくてもいいと思うんだけど。ほら、こういう感じ。」

ホウキちゃんの指導は続く。うん、見事なもんだ。コーディネーション課題の華やかさと彼女自身の所作の美しさが相俟ってさながら鳥のようだ。その涼しげな姿は燕をも想起させる。これこそが進化か。いや彼女は翼を持つ者として当然のように空を舞っているだけなのだろう。

一方で別の壁では相も変わらず3羽のペンギンがカチ課題を囲み、和気藹々と戯れあっているのが見える。目の前の課題に集中しようと努めるものの、そちらから賑やかな声が聞こえる度に私の心は醜い嫉妬心により幾分かささくれ立つのだった。

あちらへ行きたい・・・そう思うことは罪なのだろうか。

先ほどはホウキちゃんのエゴに触れてしまったが、そこには当然善意も含まれている。今この場にあるのはホウキちゃんのエゴと善意、それとサトウの下心だ。私自身の意思は微塵も介入していないが、思うだけならばともかく実際に人の善意を踏み躙ったとしたらそれは罪なのかもしれない。

つまりサトウはどうでもいいとしてホウキちゃんの善意を無碍にできるわけもなく、ともすればこの場を離れる方策はただ一つ、飛ぶことだけなのだ。

よし・・・覚悟は決まった。

であれば飛ぶ。そうと決めたら確実に飛ぶ。次の一回で決める。飛べ!今こそ飛べ!飛べないクライマーはただのクライマーだ!飛べるクライマーはなんだ!俺だ!俺は進化したクライマーだ!

・・・

その日、あるクライマーのエゴが一人のクライマーに翼を与えた。醜く小さい、一目にはそれとわからない翼で、短い距離ではあったが確かに飛んだのだ。

が、しかしその翼は更なる高みを目指すためのものではなく、自らが在るべき場所へと還るためのものであった。

その身体には空の記憶が刻まれ、触れるとほんのりとした熱を帯びたまま静かに鼓動しているのを感じる。それが進化の予兆なのか、今後進化を促すことになる何かなのか今はまだわからない。

進化とは何か、何処へ向かっているのか。私はその先にあるものを知らないまま、ただ登り続けている。

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