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【社長交代対談「小兵を、つむぐ。」vol.01】 カネコ小兵製陶所のなりたち

 カネコ小兵製陶所は、1921年(大正10年)に、初代の伊藤小兵が創業した美濃焼の窯元です。主に神仏具をつくっていた初代・伊藤小兵の時代、そして徳利生産量で日本一になった二代目・伊藤皓美の時代を経て、小兵ブランドが世界に広がるきっかけになった「ぎやまん陶」「リンカ」をつくった三代目・伊藤克紀の代で2021年、創業100周年を迎えました。
 そして2024年9月1日、四代目・伊藤祐輝が代表取締役社長に就任します。100年続いたバトンを、次の代へとつなぐ節目に、三代目と四代目が、カネコ小兵製陶所のこれまでとこれからを語る対談記事を、全5回でお届けします。

【 社長交代対談「小兵を、つむぐ。」 】
対談vol.1 カネコ小兵製陶所のなりたち(本記事)

対談vol.2 ものづくり (9月16日up予定)
対談vol.3 伝統、産業 (9月19日up予定)
対談vol.4 小さなしあわせ  (9月23日up予定)
対談vol.5 次の100年に向けて (9月26日up予定)


対談vol.1 カネコ小兵製陶所のなりたち

四代目(新社長) 伊藤祐輝 ・ 三代目(新会長) 伊藤克紀

伊藤 克紀
カネコ小兵製陶所の三代目。1979年に大学卒業後、日立系商社に就職。1985年カネコ小兵製陶所に入社し、1996年二代目の逝去により社長就任。ぎやまん陶・リンカをはじめとした小兵を代表するシリーズを数多く生み出す。2024年9月1日より会長に就任。
伊藤 祐輝
カネコ小兵製陶所の四代目。伊藤克紀の長男。2012年大学卒業後、自動車部品メーカーに勤務。2019年にカネコ小兵製陶所に入社。このたび、2024年9月1日より社長に就任。

神仏具から、徳利生産量日本一へ

四代目・伊藤祐輝 (以下、祐輝) 
カネコ小兵製陶所が位置するのは、美濃焼の産地である岐阜県土岐市下石町(ときし おろしちょう)。
初代の伊藤小兵が24歳の時に創業した窯元で、当時は神仏具を作っていたんだよね。なぜ神仏具だったんだろう。

三代目・伊藤克紀 (以下、克紀) 
この地域は昔から、流し込み成形(通称「ガバ鋳込み」)に適した陶土が採れることから、花瓶、神仏具、徳利(とっくり)など、いわゆる“袋物”と呼ばれる焼き物作りが得意な産地でね。初代もおそらく、この地域に多い“袋物”の中から、神仏具を選んだということだと思う。
これは僕の憶測だけど、神仏具を選んだ背景には、当時は戦争で亡くなる人が多く、神仏具の需要が高かったこともあるんじゃないかな。現にその頃は、骨壺も作っていたと聞いてるよ。創業当初は、大正の戦後恐慌と呼ばれる貧しい時代で、庶民はお酒もなかなか飲めない。この時はまだ酒器の需要は低かっただろうね。

祐輝 なるほど、時代の需要だったということかもしれないね。その後、二代目のおじいちゃん(伊藤皓美)が継いでから、時代は高度経済成長期へと向かっていく。宴会や居酒屋など、外でお酒を飲む文化が、少しずつ広がり始めていた中で、二代目が目をつけたのが酒器。中でも徳利だったと。

克紀 そう。日本の高度経済成長を見据え、「これからは庶民が酒を日常的に飲む時代になるから、徳利が売れるのではないか」と考えた二代目の読みは正しかったということになるね。
注文がどんどん増えて、ピーク時の昭和40年代後半頃には、月に13万本、年間160万本と、徳利生産量で日本一を誇る窯元になったんだ。

当時作っていた徳利

祐輝 日本一の生産量となると、相当忙しかっただろうね。どんな忙しさだったんだろう。父さんは子どもの頃だったと思うけど、この頃の記憶で何か残っていることはある?

克紀 親父(二代目)はもちろん、お袋も窯元を手伝っていて、両親ともにとにかく忙しそうだったなあ。食事の時は子供だけということも多かったね。お袋が忙しくて食事を作る時間もままならない時は、おばあさんがご飯を作ってくれたり。当時は今とは働き方が違って、朝から晩まで働くのが当たり前、注文が入れば大晦日も働くのが普通の時代だった。そんな中で今でも忘れないのが、親父が「俺は徳利で日本一になる」と言ったこと。そんな親父の姿を見て、自分で商売をやるというのは面白そうだなと、子供の頃からどこかで思っていた節があるね。

祐輝 へえ〜。それは分かる気がするな。父さんは大学を卒業してからカネコ小兵製陶所に入る28歳までは、商社に勤めていたんだよね。

克紀 そう。大企業を相手にする仕事で、若いながらにやりがいも感じていた。大学を卒業してからそのまま小兵に入社したら、今の自分はないと思う。だから祐輝にも家業を継ぐ前に、広い世界を見てほしいと思った。

祐輝 僕も大学を卒業してから6年間、大手の自動車部品メーカーに勤めた経験は、今後の経営にも生きると信じてる。別の世界を知った上で家業に入ったのは良かったと思うよ。父さんがカネコ小兵製陶所に入った時期は、徳利の売れ行きが落ち始めていた頃だったんだよね? 

克紀 そう。当時のカネコ小兵製陶所の生産は、徳利が98%を占めていてね。「徳利の小兵、小兵といえば徳利」と言われていたけれど、逆に言えば徳利以外には何もなかったんだ。
僕が家業に入った頃は、飲酒の多様化が進んで、熱燗を飲む人が減り始めていて、徳利が以前ほどは売れなくなってきていた。何か新しいことをやらないといけないと焦りながらも、自分自身も業界のことがよく分かっていないし、商売も継いだばかりで偉そうに意見できない。そんな中、僕が32歳の入社4年目の時に、ついに業績が赤字に転落してしまった。それが大きな転機になったんだ。

祐輝 僕が小さい頃は、父さんがまさに赤字を立て直そうと奮闘している時期だよね。幼いながらに「もうちょっと構ってほしいな」と思った時もあったけど、今思えば、あの時に相当頑張ってくれていたんだなと思うよ。

克紀 僕がちょうど今の祐輝ぐらいの年齢の時だね。赤字が続いて、大きな借金を抱えた上に、親父は病気、子どもも3人生まれて大変だった。祐輝たちには寂しい思いをさせたこともあったかもしれないけど、「子どもを大学まで行かせられるだろうか」という不安も抱えながら、もうとにかく必死で働いたね。何が何でも赤字から脱却し、経営を立て直さなければいけないと、そればかり考えてた。この時に決算書や会社の経費の支出書類を自分なりに徹底的に調べて、「どうやったら赤字から黒字に転換できるか」を突き詰めて作った「赤字対策書」が、僕の経営の原点になったんだ。

ノートに綴った『赤字対策書』

 

夫婦二人三脚でオリジナルの商品開発

祐輝 そう考えると、僕の現在は、父さんとは真逆とも言える状況かもしれない。新卒で入った会社を辞めてカネコ小兵製陶所に入社したのが31歳。中小企業大学校(中小企業の経営者や後継者が経営を学ぶ機関)にも通わせてもらって、経営全般に関するいろんなことを学ばせてもらった。そこでの出会いも大きくて、何だか未来への希望がぐっと芽生えたのが35歳前後だったな。父さんとは、家業に入った時の状況が随分違うよね。

克紀 絶望的に思えた時期もあったけど、祐輝が生まれたときに、「将来、息子の嫁さんに来てもらえる窯元にしよう」というのが、僕の目標になったんだ。というのも、焼き物づくりをしているこの地域では、窯元に嫁ぐと朝6時から夜10時まで働かないと飯が食えないという噂が、まことしやかに流れていた。そして、窯元は特におかみさんが大変だという話が広まっていて、「自分の娘はやきもの業界に嫁がせたくない」というイメージがあったようだ。だから祐輝が生まれたとき、「この子が将来結婚をするとき、今と同じイメージのままでは、自分の経営は失敗だ」と思った。だから、そうじゃない窯元を目指して頑張ろうと思ってやってきたところもある。

祐輝 そうだったんだね。僕は経営者としてはまだまだこれからだけど、父さんも含めて、いろんな経営者の人の話を聞いてると、やっぱりそうやって、いろんな苦しい波を乗り超えてきた人って、すごく強いなと思う。何が起きても大丈夫という風に、どんと構えられるところがあるなって。僕もそういう経験も必要だと思ったりするな。
赤字の脱却に奮闘した後、徳利の時代から、新たな商品開発の時代へと移っていったんだよね?

克紀 本格的に徳利から脱却して、新しい商品開発へと移行した期間は、2000年くらいからだね。96年頃から、久子(妻)と一緒に東京に足を運んでは、新しく作る商品について考え始めた。当時、焼き物の地場産業はまだまだ男性社会で、商品開発もデザインも男性が考えることが多かった。でも実際、食器を買う割合が高いのは女性だ。だからこそ、僕は女性の意見が大事だと思った。そこで出番となったのが、日頃から家族のために料理をしてくれていた久子の感性。デザインや形状は久子が、釉薬は僕が考えるようになって、夫婦二人三脚で商品開発を始めたんだ。

祐輝 この時期は、僕が中学生〜高校生ぐらいの時だよね。スティックサラダトレー、備前風(びぜんふう)に粉引風(こびきふう)などなど、本当にいろんな商品を作ってるよね。


スティックサラダトレー
備前風(黒)・粉引風(白)

克紀 世間の雑貨ブームも追い風になって、ありがたいことに久子発案の商品がよく売れたね。小兵ブランドとして、少しずつ広がり始めたのもこの時期。窯焼きの女の人はよく働くから、昔から「窯焼きは女房で持つ」とも言われたけど、「小兵は久子で持つ」と言われた時期も長かったんだ。

祐輝 本当にいろんなものを開発してきたんだなあと尊敬するよ。「ぎやまん陶」の商品開発を始めたのも、それぐらいの時期だったよね?

ヨーロッパ、アメリカ、アジア・・・
国内外に広がる小兵ブランド

克紀 「ぎやまん陶」の開発に取り組んだのは、2003年から。これまでとは全く違うもの、他に類似品がないものを作りたいと考えるうちに、「漆の溜塗(ためぬり)」のような風合いの器を作りたいとひらめいた。僕は形状より先に、釉薬から開発することが多いから、まずは釉薬作りから始めて試行錯誤を繰り返した。それから3年かけてできたのが、まるでガラスのような質感に見える釉薬。「面白い、これだ」と思った。

祐輝 漆の質感を目指して作っていたところが、結果的にガラスのような質感のものができあがったというのも面白いね。2006年に発売してから現在に至るまで、うちの看板商品の一つで、海外でも認められた最初の商品とも言えるよね。

 

ぎやまん陶(茄子紺ブルー)

克紀 その通り。2010年にはドイツの見本市で、クリスチャン・ディオールのバイヤーの目に留まり、パリ本店で「ぎやまん陶」を取り扱いたいという注文が入ったのは、夢のような話だった。その後、フランスの有名シェフが愛用してくれるようになったりと、「ぎやまん陶」が小兵ブランドの海外展開における最初の一歩になったのは間違いない。その後、新たに商品開発したのが、うちのもう一つの看板商品「リンカ」だね。

祐輝 「リンカ」はありがたいことに、国内はもちろん、アメリカ、イギリス、スペイン、オーストラリア、台湾、中国、韓国など、海外でも大きな広がりを見せている。僕たちも驚いてしまうような広がり方をしているね。

 リンカシリーズ

克紀 ニューヨークの有名ライフスタイルショップ「ローマン&ウィリアムス ギルド」での取り扱いが始まったのを機に、「リンカ」が世界中に広がったのは、本当に嬉しい驚きだった。今も新たな広がりが続いているし、小兵ブランドとして、本格的に海外展開を視野に入れて考えられるようになったのは、「リンカ」があってこそ。「ぎやまん陶」や「リンカ」を通じて、自分たちのブランドについて考える流れができた。今後は国内だけでなく、グローバルにどう展開していくかも考えどころだと思うよ。

祐輝 海外に小兵ブランドの器が広がっていることは、本当に嬉しくて誇らしいよ。「良いものをつくって、お客さんの元に届ける」という土台を父さんがつくってくれた。これからは海外も含めて、何をどういう風に届けていくかを考えるのも、僕の役目の一つだと思ってるよ。

克紀 時代が変わると生活様式も変わって、商品のライフサイクルも変わる。これからもいろんな波があると思うけど、きちんと努力をし続ける軸を持っていれば、僕は大丈夫じゃないかなと思う。僕が社長になったのは、二代目の親父が亡くなった40歳の時だったけど、祐輝には36歳でバトンを渡すことになるね。

祐輝 早めにバトンを受け取ることができる分、いろんなことに挑戦していきたいと思ってる。僕も次の代につなぐことを意識しつつ、バトンを受け取った感覚でいるよ。

克紀 企業は存続することが大事だ。存続のためには努力が欠かせないけど、祐輝には、そうやって努力をし続ける一生懸命さと熱心さがあるし、困難を乗り越えられるだけの度量があるとも思ってる。社長交代としてバトンを渡す今、安心してバトンを渡せる後継者がいることに感謝するし、ほっとしたところもある。あとは頼むぞという感じかな。

祐輝 例えば駅伝でも、第一走者と第四走者の走り方って変わってくると思う。それと同じように、“あとを継ぐ”というのは、時代はもちろん、企業としてのどの時期に継ぐのかによっても全然違ってくると思うんだ。自分が前向きにあとを継ぐことを選べたのも嬉しいし、そんな状態を作り出してくれた父さんにも感謝してる。時代の流れを汲みながら、次の代にどうバトンをつなぐかを考えながら、僕なりの“第四走者”を努めたいと思っているよ。


…vol2へ続く(9月16日公開予定です)


取材・編集 松岡かすみ
対談写真 野村優
コピー 松岡基弘

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