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色川武大「百」

色川武大「百」は川端康成文学賞受賞作品です。
「生家へ」のように、父親との関係を主軸に置いた作品ですが、この短編においては老いた「父親」と作中の「私」との関係が描き出されています。
老い衰え行く「父親」のを見、その中で移ろいゆく「私」の心境が淡々とした筆致、平明な文書で表現されます。

あらすじ

「弟」の嫁からの電話で、「父親」が「母親」を縁側から突き落とし骨折させたという知らせを受けた「私」は夜中、離れていた生家へ仕事を片付けて向かいます。
「私」は、「父親」に対してかつては明確な「殺意」さえ抱いていたものの、「父親」の老いと「私」の成長によって体力は逆転、争っても力の差で「私」が「父親」を組み据えてしまうようになったことで、「父親」に対する意識が変わったといいます。
生家で「父親」はかつての職であった海軍の艦艇の上で犬が漏らす話をし、さらには白寿のお祝い金を孫に贈るという話をしますが、その端々には捨て台詞がありました。かつては捨て台詞などは言わなかった「父親」が、老いによって捨て台詞を言わねばならない状況にあることを感じた「私」は、「父親の内心に攻めいらないようにしたい」と考えます。
「弟」夫婦と話し込んでいた「私」を窓から見ていた「父親」は、何か重要な案件が決まったのであれば、報告しろ、と家族を居間に集めます。
集まった家族を前に、ぼんやりただテレビを見ていた父親は、打ってかわってか弱い声で「熊が来ている」から「庭を探すように」と言いつけます。
「私」と「弟」夫婦の三人は望んだように立ち上がり、庭へ出、空を見上げるとそこには星が輝いていました。

私の読み

この作品は、「私」の「父親」に対する意識の移ろいを描いた作品です。
ある時までは「殺意」さえ抱いていた「父親」への意識は、その老い、さらには「私」の老いにより、変化していきます。
「父親」を組み伏せたその時から「私」は、「父親」を殺すことでしか解決できない争いから解放されたかに見えますが、それは「父親」の人生の葛藤、苦悩を見るという新たな争いのはじまりでした。
そして、この作中に現れる「父親」に対してもその眼差しは現れますが、そこには「殺意」というよりも「共感」のこもった目線があります。
作中における「私」と「父親」の関係にはむしろ、憎しみと愛しさが同居しているようにすら感じられるのです。
そしてその関係は、「私」にとっても特別なものであり、また「父親」にとっても同様のものであったと言えるでしょう。
そして「私」が「父親」へ向けた一種特別な眼差しは、作品末尾における、いるはずのない「熊」を「庭」で探す、という行動にも現れます。
その少し手前、「私」が「弟」に向かって「父親」は常時幻覚が見えているのではないかと言い、一笑に付される場面がありますが、ここでもその眼差しは機能しています。
ここでは「私」の意識は、限りなく「父親」に同化しようとしているようであり、「私」自身のことを「父親」に敷衍しているようでもあります。
そして「私」の「父親」と同化しようとする意識への移ろいは、「父親」へのある種特別な眼差しとなり、末尾における「熊」を探すふりをするという行動としてあらわれてくるのです。
そして夜空を見上げる「私」の姿は、「父親」に対する意識が以前のものとはまた移ろって別の場所にあることを示すかのようにも、見えてきます。

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