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放埓の人―色川武大・阿佐田哲也の生涯

 色川武大といえば、無頼の人というイメージを皆さん持たれていることであろうと思います。事実その通りで、幼少の頃は浅草に入り浸り、戦後は博打うち、そして小説家へと色川独自の道を進んでいきます。
 今日は、そんな色川の流転の絶えぬ人生を、年代を追って辿っていきましょう。

なお、『別冊・話の特集――色川武大・阿佐田哲也の特集』、『色川武大阿佐田哲也全集』第16巻収録の「年譜」を参考にさせていただきました。

・浅草と戦争――少年時代――

 1929(昭和4)年3月8日、東京都牛込区矢来町に色川は生まれます。退役軍人の父武夫(44歳)母あき(24歳)の長男として、特に父からは溺愛されて育ちました。この父武夫との後年の軋轢ともいえる関係については「生家へ」をはじめとするあらゆる作品の底にその存在が重く横たわっています。
 1935年(昭和10)年には弟の正大が誕生、色川は小学校に入学します。小学校では劣等生であったと様々な随筆等で色川は書いていますが、この時から色川の浅草通いが始まります。学校に行くふりをして家を出、そのまま浅草へ向かい、公園で佇んでいたり、落語や寄席、軽演劇などの興行に見入ったりと、この時の体験が後年の色川に多きな影響を与えたといいます。
 1941年(昭和18)年には東京市立第三中学校に進みますが、12月に太平洋戦争がはじまり、戦禍の中での学生生活を送ることとなります。
 その後、勤労動員で招集された先の工場で友人と発行していたガリ版同人誌が工場の配属軍人に露顕、無期停学処分を受け、宙に浮いた状態で終戦を迎えます。

・博打うちから編集者へ

 1945(昭和20)年8月、16歳の色川少年は中学校を無期停学処分のまま、終戦を迎えます。転校も進級もできず、また放校されるわけでもなく、宙に浮いた存在として工場にも出ず、焼け跡の中を徘徊していましたが、父の軍人恩給が出なくなったこともあり、生きるために様々な職を転々とします。
 かつぎ屋、ヤミ屋、街頭立売りなどを経て、ヤミ商事会社、薪炭配給所、通運会社、新興出版社などに少年社員として勤めますが、それも長く続かず、博打の世界にのめりこみ、家出同然で各地を徘徊したといいます。色川によれば、この頃の記憶は混沌としており、自身の記憶も曖昧であるといいます。
 1950(昭和25)年、色川21歳。この頃から色川は実家に戻り、まともな職に就いて働こうと考え始めます。一度に何社もの面接に通い、受かった会社すべてに入社するといったエキセントリックな方法で、様々な会社を転々とする生活を続けます。
 そんな生活が一年ばかり続いたころ、色川は桃園書房という雑誌社に入社しますが、これが色川にとっての一つの転機となります。色川はこの頃から編集者を続けながら、娯楽雑誌の記事を執筆するようになり、また庄司総一の『新表現』や有馬頼義の『文学生活』、藤原審爾の「チモフェーエフ文学理論勉強会」など、多数の同人誌や文学研究会に参加しています。
 1955(昭和30)年、色川26歳の年、桃園書房をクビになったことをきっかけに娯楽小説の世界に本格的に足を踏み入れます。色川は引き続き同人活動を続けながらも、娯楽小説誌において、井上志摩夫などのペンネームで多数の作品を執筆しています。
 このころの作品は一部残っているものもありますが、ほとんどは散逸してしまっており、幻の作品たちとなっています。

・小説家としての道~色川武大と阿佐田哲也

 1961(昭和36)年、色川32歳。この年に色川はペンネームで娯楽小説誌に執筆することを辞め、本名である色川武大名義で純文学作品を書き始めます。 
 そして物された作品が「黒い布」です。「黒い布」は中央公論新人賞に入選し、三島由紀夫や伊藤整に激賞されました。しかし、その後は思うような作品が執筆できず、苦しい時期を過ごします。その間も、ペンネームでの仕事は受けず、純文学の作品を書き続けましたが、その努力が実るまでは長い時間を要しました。
 色川にとって大きな転機となったのは、1968(昭和43)年、色川39歳の頃でした。色川はそれまで原因不明の体調不良に悩まされており、入院費用を稼ぐために自らの禁を破り週刊誌にペンネームを用いて麻雀小説を発表します。
 その時のペンネームこそ、「阿佐田哲也」です。この阿佐田哲也名義での小説が好評を博し、色川の思惑とは異なり阿佐田哲也として世に認知されることとなります。その後も「麻雀放浪記」など数多くのギャンブル小説を発表し、色川は阿佐田哲也として人気作家としての地位を確立します。
 純文学作家としては長い雌伏の時が続きましたが、その作品がもう一度世に認められたのは、1977(昭和52)年、色川48歳の年。色川は『怪しい来客簿』で泉鏡花文学賞を受賞しますが、中央公論新人賞の受賞から16年という歳月が経過していました。
 それから色川は純文学作家としての「色川武大」と、麻雀小説の大家としての「阿佐田哲也」として忙しい日々を送ります。
 1978(昭和53)年、色川49歳の年には「離婚」で直木賞を受賞。さらに1981(昭和56)年、52歳で「百」により川端康成文学賞を受賞するなど、精力的に執筆活動を続けます。
 また、渾身の力で書ききった『狂人日記』で1989(昭和64・平成元)年2月に読売文学賞を受賞しますが、その年の4月3日、心臓発作に倒れ4月10日に逝去します。作品の執筆に専念するため、東京での生活を離れ、3月に岩手県一関市に転居した矢先の出来事でした。

 純文学の色川武大、麻雀小説の阿佐田哲也。そのどちらの名義においても素晴らしい作品群を残しましたが、最期は自身の念願であった最後の大作を書ききることができずに、無念にもその59年の生涯に幕を閉じました。しかしその作品はいまもなお、多くの人に愛され続けています。


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