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【特別公開4】井伊大老の貫通銃創

書籍「秀吉の六本指/龍馬の梅毒  Dr.シノダが読み解く歴史の中の医療」の出版を記念して、本書から一部のエピソードを全5回にわたって特別公開いたします。

医師であり、直木賞候補作家の篠田達明先生が語る医療史エッセイ。特別公開第4回目は「井伊大老の貫通銃創」です。


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井伊大老の貫通銃創

万延元年(1860)3 月3 日の午前8 時すぎ、前夜降った大雪の路上で幕府大老の井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺される大事件が生じた。いわゆる《桜田門外の変》である。このとき井伊大老を襲ったのは18 人の水戸浪士だった。井伊家の供侍のうち、勇敢に戦ったのはわずか数人。のこる60 余人は、恐怖のあまりクモの子を散らすように逃げ去った。このため、直弼はあっけなく首を取られる羽目に遇うのだが、彼は刀術の達人であり、易々と斬り殺されるようなヤワな武士ではない。襲撃をうければ素早く駕籠からとびだし、得意の居合術で浪士の数人は斬り伏せる業の持主だった。なのになんら抵抗もせず、浪士の為すがままにされたのは、いったい、そこになにがおこったのだろうか。

浪士たちは一斉に斬り込む合図として短銃を一発放つことにしていた。狙撃したのは黒沢忠三郎という浪士で、弾は直弼の下半身を直撃した。

のちに彦根藩医の岡島玄達が主君の死体検案をおこなったとき、左の太股(ふともも)から腰に抜ける貫通銃創を報告している。したがって襲撃犯が短銃を発射し、弾が命中したことはまちがいない。直弼は駕籠の中であぐらをかいていて左側から狙われており、弾は左大腿部を抜けて腰部を斜めに貫通したものと思われる。

そこでもっとも考えられるのは、弾が直弼の腰を貫いて脊髄神経を損傷し、このため本人は身うごきできなくなったことである。これではいくら刀術の達人といえども、いかんともしがたい。

この事件の前、米海軍のペリーが黒船で来航したとき、土産品として百挺(ひゃくちょう)ほどの短銃が幕府に贈られた。これを手に入れた水戸藩では、短銃に倣っていくつか試作品をつくり、そのうちの1 挺が直弼の暗殺用に用いられたのだった。

水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)は、政敵の彦根藩主・井伊大老によって謹慎処分を受けたにもかかわらず、過激派藩士の脱藩を知ると「わが藩の浪士どもが貴殿を狙っている。十分用心されたし」と手紙を送り、水戸製短銃を2 挺をこれに添えた。だが直弼は「大老ともあろう者が、このような飛び道具で脅されるわけがない」とせせら笑い、斉昭の警告を無視したのである。

短銃の威力を軽くみたことや、最高権力者を襲うようなばかげたことをする者がいるはずもなかろう、と油断したことが直弼の命取りになったのである。

当日、江戸城の沿道には多くの大名の家臣たちが並んでいたが、惨劇を目撃しても、だれひとり直弼に加勢しようとする者はいなかった。日頃、いかに彼が憎まれていたかわかろうというものだ。

なお、松下村塾の吉田松蔭は、萩にいながら井伊大老暗殺計画をはじめ、第一級の最新情報を手にしていたという。しかも暗殺計画は練りに練ったものであったから、井伊大老は、いわば情報戦に敗れたといえようか。


井伊直弼

井伊直弼
(1815~1860)
彦根城博物館蔵


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【書籍のご紹介】

金原サムネ

・著 者:篠田 達明
・定 価 :3,080円(2,800円+税)
・A5判・244頁
・ISBN 978-4-307-00488-6
・発行日:2020年5月31日
・発行所:金原出版

・取扱い書店はこちら

【著者紹介】
篠田 達明(しのだ たつあき)
1937年,愛知県一宮市生まれ。1962年,名古屋大学医学部卒業。愛知県心身障害者コロニー中央病院長,同コロニー総長を経て,愛知県医療療育総合センター(前 愛知県心身障害者コロニー)名誉総長。
著書に第8回 歴史文学賞受賞作『にわか産婆・漱石』や105回 直木賞候補作『法王庁の避妊法』などがある。