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名無しの島 第12章 逃走

 水落圭介はもつれそうになる両足に、必死に力を込めて走った。

右手には斐伊川紗枝の腕をつかんでいる。

彼女がパニックを起こしているのは、明らかだった。

断続的に悲鳴・・・いや奇声を上げている。

圭介はその口を塞ぎたくてたまらなかったが、

恐怖の方が、その衝動に勝っていた。


 今は逃げるのが先だ―――。

井沢も言っていたではないか、不測の事態が起これば、

ベースキャンプに戻れと・・・だが、不測の事態が、

いきなりこんな形で訪れるとは

水落圭介だけでなく、他の3人も想像さえしていなかった。

 あの光景・・・井沢悠斗の腕が喰い千切られ、そして彼の絶叫。

首筋を噛まれ、引き裂かれる彼の肉体から飛び出す内臓。

そしてシャンパンを思い切り振った後、

栓を抜くと中身が噴出すような、血、血、血。

とても現実感が無い・・・。

あれは何かの夢だ。まだオレはテントの中で

寝てるんだ・・・。あんな物がいるわけがない―――。

あれは悪夢の産物だ。間違いない・・・。


 水落圭介は自分の心臓が、

破裂しそうなほど脈動しているのがわかった。

それでいて、彼は笑っていた。それは声を出さない笑いだった。

頬や口角の筋肉が引きつり、痙攣したように笑っていた。

笑いながら、緩い傾斜を走り登っていた。

 圭介は、ふいに有田真由美のことが頭によぎった。後ろを振り向く。

彼女はすぐ後ろを走っていた。

右手で、斐伊川紗枝の背中を押している。

有田真由美は笑ってはいなかった。恐怖に顔を引きつらせながらも、

水落圭介よりも冷静な表情に見える。


 しばらくして、ベースキャンプが見えてきた。。

あの化け物から逃れようと走った時間が、数時間にも思えた。

ベースキャンプにたどり着くと、水落圭介も有田真由美も、

そして斐伊川紗枝も倒れこむようにして、その場に座り込んだ。

皆、声も出ないほど呼吸が荒い。

この森林が吐き出している濃厚な酸素を、むさぼるように吸い込んだ。

斐伊川紗枝は、もう悲鳴など上げてはいなかった。

呼吸するので精一杯なのだ。そして彼女は泣きじゃくっていた。

泣きながら大きく口を開けて呼吸していた。


 水落圭介は今来た道を振り返った。

あの化け物が、自分たちを追って来てるのではないかと思ったのだ。

だが、あの化け物の姿は無い・・・。安堵感で、全身の筋肉が緩んでいく。

水落圭介は腰に下げた水筒をつかみ出すと、栓を抜いて貪るように飲んだ。

水が口から溢れ、顎を滴り落ちる。圭介は思わずむせたように、

咳き込んだ。

「あ・・・あれは、何だったんだ?」

 ようやく彼の口から言葉が出た。

自分でも意外なほど平坦な口調だった。

水落圭介の隣で、しりもちを着いている有田真由美が、

細く力ない声で返事した。

「わからない・・・わからない」

 彼女はそう言いながら、

手にした一眼レフのデジタルカメラを握りしめる。

 斐伊川紗枝は体育座りをしたまま、ここ常夏の島にいながら、

極寒の地にいるかのように、

上の歯と下の歯をガチガチと打ち鳴らせている。

 どれくらいの時間が経っただろうか。

そこでようやく、水落圭介はベースキャンプを見渡した。

そしてまた驚愕する。5つのテントがすべて壊され、

ズタズタに引き裂かれていたのだ。

テントの布地は何か鋭いもので切り刻まれ、ポールはひん曲がり、

ペグも引き抜かれて、もはや原型をとどめていない。

まるで廃墟だ。

 そのことに気づいたのは圭介だけではない。

他の女性二人も両目を丸くする。

水落圭介は力無く、緩慢な動作で立ち上がった。

周囲をゆっくりと見渡す。

ここには小手川浩が居残りしていたはずだが・・・

彼の姿はどこにもない。

「わっ・・・わ・・・わぁーッ」

 斐伊川紗枝が再びパニックを起こしかける。

彼女は水落圭介が背にしている木陰の方に視線を向けて、

座ったままあとじさった。

やはり、化け物は追ってきていたのか!

圭介は反射的に、足元に転がっていた―――

昨夜、集めた薪の―――棒を

拾い上げて身構えながら振り向いた。

その直後、その木陰から押し殺したような声がした。

「しッ!静かにして」

 その声は、小手川浩のものだった。

水落圭介の右手側にある、直径60センチほどの樹木の陰から、

小手川浩の顔がのぞいた。

「小手川君、無事だったのか・・・」

圭介は、ほっと胸を撫で下ろしながら、

振り上げていた薪を握っていた右腕を降ろした。

小手川浩は這いずるようにして、木陰から近づいてきた。

どうやら腰が抜けいているようだ。

それに彼の顔色が蒼ざめているのも、

この暗い森の中でも、はっきりとわかる。

「水落さんたちが出発してから、ここで休んでたんです。

 するとあったからガサガサと音がして・・・」

 小手川浩はその方向を指差した。まだ恐怖に捉われているのだろう。

彼の声は震えていた。それに小手川浩が指し示した方向は、

あの化け物が現れた場所とは間逆だった。

小手川浩は震えながら、言葉を続けた。

「何か大きな動物かと思って・・・怖くなって

 とっさに木の陰に隠れたんです。

 そしたら見たこともない化け物が・・・」

そこで彼は言い澱む。

「信じてくださいよ。ウソじゃありませんから・・・」

 そう前置きしてから、小手川浩は話し始めた。

「首が・・・頭が二つある人間のようなものが現れたんです。

頭のひとつは腐ったように、垂れ下がっていて・・・

 上半身裸でズボンを履いてました。肌の色は灰色のような、

 肌色のような・・・そいつがテントを壊し始めたんです。

 僕、恐ろしくて・・・」

 小手川浩は恥ずかしそうに目を伏せた。

彼のジーンズの前が少し濡れている。わずかだが、失禁したようだ。

「信じてください。本当なんです」

 彼の目には恐怖とともに懇願するような光があった。

「信じるよ。オレたちもついさっき、化け物を見たんだ」

 圭介は言った。もう声は震えていない。

「頭がふたつって・・・それ、私たちが見たものと別物じゃ・・・」

 有田真由美が声を潜めて言う。そして周囲を警戒するように見渡した。


まるで近くにいるかもしれない化け物に聞かれまいとするかのように。

そこで小手川浩は気づいた。井沢悠斗がいないことに・・・。

「井沢さんは?井沢さんはどうしたんですか?」

 彼の問いに、水落圭介は目を伏せた。

「彼は・・・たぶん、殺された。オレたちが見た・・・

 キミが見たものとは別の化け物に」

 圭介の脳裏にまたその光景が蘇る。

腕を喰い千切られ、首を噛み千切られ、内臓を引き裂かれている

井沢悠斗の無残な姿が―――。

圭介の胃袋が逆流を始めた。急いで皆から離れて、

藪の中に吐瀉物を嘔吐した。

今朝、食べたばかりのコーンスープとパンの消化物が吐き出される。

吐き出してもなお、圭介の口内には胃液の発する、

焼けるように酸っぱいものが残った。食道がひりひりと痛んだ。

小手川浩は口をあんぐりと開けた。

「そんな井沢さんが・・・そんな・・・」

 彼の蒼ざめた顔色が、土気色に変わる。

「本当のことなのよ。私は確認はしてないけど・・・」

 有田真由美の声が冷静に言う。

一方、斐伊川紗枝は、まだ放心状態のままだ。

「ちょっと待って。撮った画像を確認してみる」

 まだ荒い息をしている有田真由美はそう言いながら、

一眼レフのデジタルカメラを操作し始めた。

他の3人も彼女の傍らに近寄って、その画像を覗き込んだ。

画像はどれもブレていて、ピントも合っていなかったが、

状況はわかるものだった。

井沢悠斗らしきオリーブドラブ色のシルエット。

その彼に覆いかぶさっているような灰色の何者か。その何者かには、

4本の腕らしきものが確認できる。

「ごめんなさい。私もとっさだったから・・・連写したんだけど、

 上手く取れてないわ・・・」

 有田真由美は残念そうに言った。

「仕方ないよ。あんな化け物が襲って来るなんて、

 誰も予想してなかったんだから」

 水落圭介の息もまだ荒かった。

「どうするんです?これから?もういやだ・・・

 こんな島から逃げましょうよ」

小手川浩の声が不安と恐怖で震える。

「逃げ出したいのはやまやまだ。しかし、所沢さんの船が

 この島に迎えに来るのは、4日後なんだぞ・・・」

 水落圭介は、へたり込むようにその場に座り込んだ。

「4日もなんて・・・こんな島に4日もなんて・・・」

小手川浩は絶望したように、両手で顔を覆い、咽び泣き出した。

「ここにいたら、またあの化け物が襲って来るかもしれない。

 早く移動したほうがいいわ」と有田真由美。

4人の中で、彼女が一番冷静のように見えた。

「じゃあ、岸壁を降りて所沢さんの船を停留させた、

 あの岩場にいきましょうよ」

 涙声で小手川浩が言った。

「いや、あそこにいては返って危険だ。回りは海しかない。

 もし襲われたら、逃げ道が無い」

 水落圭介は、その岸壁がある方を見て言う。

「だったら、泳いでいきましょうよ・・・」

 小手川浩はとんでもないことを言い出した。

まだパニックがおさまっていないのか。

「あんた、馬鹿じゃない?200キロも泳ぐの?

 それも漁船でさえ流されるほどの潮流を?」

 有田真由美は怒りと呆れの入り混じった顔を、小手川浩に向けた。

 彼女にそう言われて、小手川浩はジーンズの尻ポケットから

スマートフォンを取り出した。液晶画面を擦る指が震えている。

それから落胆するように言った。

「だめだ・・・やっぱり圏外だ・・・」小手川浩は肩を落とした。

「とにかく、ここを離れよう。そして所沢さんが来る日まで

 持ちこたえるんだ。まず、安全に身を隠せるところを探そう」

 水落圭介は、座り込んだまま

震えている斐伊川紗枝の腕を掴んで、立たせようとした。

腕を突然掴まれた彼女は「ひっ」と言って、身を引いた。

そんな彼女をなだめるように、

有田真由美がゆっくりと斐伊川紗枝を立たせる。


小手川浩も立ち上がった。だが、その両足は震えが止まっていない。

 水落圭介は、井沢悠斗と共に行った道も、小手川浩が目撃した、

首がふたつあるという化け物が現れた方向も避けた。

そうなると、この島の東側しか道は残っていなかった。

その方向は、

所沢宗一が迎えに来るはずの岩場から反対の方角だった―――。

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