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名無しの島 第9章 蠢くもの

 まだ、夕刻には早いというのに、辺りは薄暗く感じる。

陽光に照らされ、船上にいた時には濃かった姿を

作っていた自分たちの影はかすんで、

岩棚に映ったそれは、ほとんどその輪郭が判別できない。

それに、いままで気づかなかったが、

5人の誰もがかすかに生臭い風を、嗅覚と肌に感じた。


 井沢悠斗は周囲を見渡した。一見、どこも断崖にしか見えない。

素人目には、とても登れるような所は見当たらなかった。

しかし、彼の視線はあると場所で止まる。

「あの岩棚なら登れそうだ」

 井沢悠斗はその方向を指差す。水落圭介たち4人は、

井沢悠斗が言う所に目を凝らした。

確かに、30メートルほど先、

鋭利な刃物のような岩礁の陰に隠れるように、

その場所だけ緩やかに島の上に伸びる岩棚がある。

といっても、傾斜は40度近くはあるし、

高低差は10メートル以上ありそうだ。

5人は岩礁を慎重に飛び越えながら、その場所を目指した。

重いリュックのストラップが肩に食い込む。

その岩棚に着くころ、井沢悠斗以外の者は、すでに肩で息をしていた。

 その傾斜を見上げると、上から1本のロープが下がっている。

だが、潮風や干潮時の波に浸食されたのか、

そのロープは灰色にくすみ、ボロボロになっている。

「たぶん、今までここに来た連中も、ここから登ったんだな。

 だが、このロープは使えそうにないな。今にも千切れそうだ」

 井沢悠斗はそう言うと、担いでいたリュックを降ろした。

プラバックルをはずし、丈夫そうなクライミングロープを取り出した。

「オレが先に登って、ロープを掛ける。

 キミたちは、それをつたって登るといい」

 井沢悠斗は振り返ると、背後の4人に言った。

遠くから見るとそれほどでもない傾斜に思えたが、

いざ目前にしてみると、上がどうなっているのかさえ見えない。

井沢悠斗は4人それぞれに、ハーネスとソロエイドを渡した。

「岩場にボルトを打ち込んで、カラビナをかけるから、

 そのソロエイドを引っ掛けながら登るんだ」

 井沢悠斗が簡単に、それらの使い方をレクチャーした。

しかし、斐伊川紗枝は、なかなか要領がつかめずにいた。

やはり、初心者を連れてくるべきではなかったと、後悔した。

時間がかかり過ぎている。水落圭介は腕時計を見る。

すでに午後3時になろうとしていた。

もうすぐ陽が傾く時間だ。井沢悠斗が岩場を登り始めた。

手馴れた手付きで岩肌にボルトを打ち込み、

カラビナを取り付けていく。それは素早い動きだった。

わずか十数分で、最上部にたどり着く。

それから岩場を蹴りながら、降りてきた。

「最初は水落君、その後は有田さん、小手川君、斐伊川さんの順で

 登ってくれ。オレは最後尾に追いて斐伊川さんのサポートをする」

 井沢の言葉に、4人がうなづく。


 水落圭介も井沢悠斗ほどではないが、クライミングの経験はある。

それもこの程度の高さなら、さして難しくは無い。

有田真由美もまた、経験を積んでいた。

それはカメラマンとして、必要なスキルでもあった。

問題は、初心者の小手川浩と斐伊川紗枝のふたりだ。

小手川は小太りではあるものの、やはり男だ。

自分を支える筋力を十分に持っていた。やや、手間取りながらも、

有田真由美に続いて、岩場を登りきった。

斐伊川紗枝は、ときおりナイキのスニーカーを滑らせながらも、

井沢悠斗が、その背を支えてくれたおかげで、無事登りきった。

それでも彼女は、登り終わった雑草の繁茂する地面に座り込み、

井沢悠斗以外は皆、息が上がっている。


 水落圭介は、深呼吸した。周囲を見渡す。背後にある森は薄暗い。

息が詰まるくらいの酸素の濃さを感じるほど、樹木がうっそうとしている。

その植物群落の植生は極めて豊かだった。

フクギやガジュマルなどの、沖縄に馴染み深い樹木、デイゴ、

ブーゲンビリアと見られる花木もある。

そして地面には、隙間も無いほどの雑草やコケ類に覆われている。

圭介は空を見上げた。さらに薄暗く感じるのは、

曇っているからだけではない。

たとえ晴天でも、この繁茂する樹木の下では、

陽光もほとんど差さないだろう。


 まるでジャングルだ―――。

水落圭介の印象は、まさにそれだった。

「無人島の名に相応しい、まさに前人未踏の地って感じだな」

 井沢悠斗は、にこやかに言った。気のせいか、

彼の瞳は輝いて、嬉しそうにさえ見える。

井沢はリュックから、マチェット―――山刀を取り出した。

刃渡りは50センチほどの刃が、鈍く光った。

小手川浩や斐伊川紗枝の目が、怯えたように丸くなる。

「ははは・・・これは藪を切り払うためのものだよ」

 井沢悠斗が、マチェットを目線上に掲げて笑う。

その言葉通りに、井沢は行き場を妨げる雑草を切り払いながら、

森の中に入っていく。

4人は慌てて、リュックを背負い直すと、井沢悠斗の後を追った。

「日が暮れるまでには、キャンプできるところを見つけないとな」

 井沢悠斗が誰に言うでもなくつぶやいた。

こんな森の中にテントを張れる場所など、本当にあるのだろうか・・・。

圭介の心に、一抹の不安がよぎる。


 その時だった。音がしたのは・・・。

その音は、樹木が風に仰がれる音とは、あきらかに違っていた。

何かが動く音。いや、這う音か・・・。

圭介が耳にした音は、森を歩む一行の右手側、

より森の深い方向からだった。

井沢悠斗も、その音に気づいたようだ。

水落圭介が送る視線と同じ方を見やっている。

「何か動物がいるんだろう」

 井沢は笑顔でそう言ったが、はて・・・と自分でも思った。

彼は経験から、音の種類で大体の動物の大きさがわかるのだが、

今の音は小動物のそれとは違った。少なくとも体重70キロ以上のものだ。

 こんな小島に大型の動物などいるはずもないのだが・・・。


井沢悠斗は少しの間、振るうマチェットを止めて耳を澄ます。

だが、音はもう聞こえない。

気のせいか・・・。井沢は少し首を傾げたが、

猪か鹿の類だろうと判断した。

そして、再び前進を始める。

 しんがりを歩く小手川浩は、木々の間から何か動く影を見た。

それは少し前かがみになり、這うように移動している。

だが、陽光のささない薄暗い、

この森の中ではその姿ははっきりとはわからない。

しかも、太い木々が邪魔になって、

途切れ途切れでしか、その姿は見えない。

そのせいで、その動物らしきものの全体像を

伺い知ることはできなかった。


 あんな大きな動物もいるんだ、と小手川浩は思った・・・。

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