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大好きな、お義父さんとの想い出。

今よりももっと蒸し暑い、73年前の今日・・・

大好きなお義父さんは、荒れた沖縄の地にいました。

私がこうして夫と出会い、今ここにいるのは・・・

「容吉」という日本名を持つお義父さんが、沖縄に強制連行されても・・・

アメリカ軍の捕虜となって、生きて韓国に戻ってこられたからです。


 あれは、初めてご両親にお会いした時のこと。お義母さんは、私たちの結婚を反対していました。それは私が日本人だからだと思っていましたが、そうではなくて一人息子の成功のために、理想の結婚相手を選んであげたいという母親の想いからでした。そんな義母とは反対に、お義父さんは結婚に反対することなく、私を縁側に呼んで「これはタバコだね。これはマッチ。」と、流暢な日本語で話しかけてくれたのです。それには、とても驚きました。その時私は「大変だったでしょう。ひどい日本人もいましたね。」と、勇気をもって日本語で尋ねてみました。しかしお義父さんは、「日本人でも良い人はいた。逆に韓国人にも悪い人がいたしね。みんな同じ人間なんだよ。」と、笑顔で答えられたのです。 あの時のお義父さんの、深い優しさと清らかな瞳は私を「あぁ、このご両親と一緒に生活して、日本人として少しでも慰労してさしあげたい。」と思わせ、夫の両親と一緒に生活することになりました。


 一緒に生活する中でお義父さんは、私を「アガヤー」とか「アガ」と呼びました。それは韓国語で嫁を呼ぶ時に使う名称で、「かわいい赤ちゃん」という意味も含みます。私を呼ぶその声の中に、日本人である私をも受け入れてくださるお義父さんの愛を感じていました。結局は私がお義父さんを慰労して差し上げるのではなく、お義父さんが私を励まして下さったのです。


 もう一つ、お義父さんとの忘れられない思い出があります。
 ある日、大邱の繁華街まで用事があって、私が一人で出かけた時のこと。もともと東京近郊が「庭」の人からすれば、大邱(テグ)の繁華街は「水を得た魚」のようなものです。一方、お義父さんからすれば「言葉も儘ならない嫁が、一人で危ない都会に行く!」と思ったのでしょう。大邱(テグ)からの帰りのバスが、家の近くのバス停に到着すると、待合室になんとお義父さんが座って待っているではないですか?!
 驚いてお義父さんに、「いつから、このバス停で待っておられたのですか?」と尋ねると「ちょっと前からだよ。」というのですが、どうもほぼ一日待っていたようなのです。「どうして、私を待っていたのですか?」と聞くと、家までの帰路には6車線で時速80キロの道路があるのですが、それが「大変危険」なので心配だから来た、というのです。私からすれば「危険」の範囲ではないのですが、田舎のお年寄りからすれば「大変危険」な場所だったのでしょう。横断歩道もあって何一つ心配はいらなくても、お義父さんからすればこの危ない道を嫁一人で渡れないだろうと思い、停留所の待合室で一日中待っていた、ということなのです・・・・


 沖縄戦の後遺症もあって、とぼとぼと杖を突きながらゆっくり歩くお義父さんの後ろ姿を見ながら、私こそお義父さんがこの道をどうやって一人で渡ってこられたのだろう???と、逆に心配になったぐらいです。でもその時は、嫁を守ろうとするお義父さんの後姿を見つめながら、私も同じようにとぼとぼと、ゆっくり歩いて帰りました・・・
 

 それからお義父さんの命日の祭祀の準備の時には、お義父さんが好きなチジミを焼いていると、自然とあの時の、あの後ろ姿が、鮮やかに目の前に浮かんできます。


お付き合い、ありがとうございました。




拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡