見出し画像

百人一首むすめふさほせ 住の江の岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路人目よくらむ

住の江の岸による波
よるの波
夜の夢にもあなたは来ない


 百人一首の一字札、「むすめふさほせ」の「す」


18 住の江すみのえの岸に寄る波よるさへや夢の通ひ路かよいじ人目ひとめよくらむ  藤原敏行朝臣ふじわらのとしゆき

 住の江の岸に寄せる波の「寄る」のように、同じ発音の「夜」でさえ、人目も気にならないはずの夜の夢の中でさえ、私のもとへ通う夢の中の道でさえ、どうしてあなたはこんなに人目を避けて出てきてくれないのですか。私のことは思っていないのでしょうか。

 作者は男性だが、女性の気持ちになって詠んでいる。元歌の「古今集こきんしゅう」の詞書ことばがきには「寛平御時后宮歌合かんぴょうのおおんとききさいのみやのうたあわせの歌」とある。妻問婚つまどいこんの当時、待つのは女性だった。現実とは違う、小説の登場人物のように、その人の気持ちになって歌を詠むことも当時は多かった。だから、実際の恋とは違う、空想の恋の歌も多く詠まれている。
 美人で有名な小野小町の歌なども、実際に恋して詠んだ歌ではなく、題材を与えられて詠んだ恋の歌だといわれるものが多い。

 「住の江」は、摂津国住吉せっつのくにすみよし(現在の大阪市住吉区)。そこの海岸。全国の住吉神社をまとめる住吉大社で有名。昔は「住吉」と書いて「すみのえ」と読んでいた。「住之江」という地名もあるが、本来の「すみのえ」は「住吉」と書く。住吉と書いているうちに読み方が「すみよし」となってきた。
 「寄る」は、波が寄るの「寄る」から「夜」という言葉を出すためのダジャレ(懸詞かけことば)。「住の江の岸に寄る波」までが「序詞じょことば」となり、「夜」という言葉を出すための飾りの言葉となっている。「住の江の岸に寄せる波の『よる』のように」というたとえ。海の波を詠った歌ではない。
 「夢の通ひ路」は、夜に夢の中で会いに来る道。現実にあえないときに、夢の中で好きな人にあうということを考えた。相手を思っていると、相手の夢に出ると思われていた。

 実際には、「夢」というのは、強く思っているときには、そのことを夢に見ることはなく、少し忘れたころに、忘れないように夢に見るらしい。ほんまかいな。最近、夢に関する本を読んでいないので自信がない説。
 ちょこっと調べたら、恋がうまくいっているときには、相手を夢に見ることはないらしい。科学的に証明できる話ではないので、本当かどうかはわからない。精神分析を考え出したフロイトの説の解説として聞いてほしい。
 恋がうまくいかなくなった不安から夢を見るらしい。だから、あえない相手を夢に見るというのは、不安な気持ちを夢で表現しているのかもわからない。
 精神分析も夢のような説だが、この歌自身も科学ではなく、作者の空想の産物。好きな人が夢に出てこないというのも、現実のことなのか、空想のことなのかわからない。それが文学。わからないけれども、そういう思いで作者は歌を詠んだ。そういう気持ちに共感する人が多かったからこそ歌い継がれ、現代でも知られ、愛されているのだろう。

 「人目 よくらむ」の「人目ひとめ」は「他人の目」のこと。「よく」は「よける(除ける、避ける)」という意味の動詞。「らむ」は原因や理由を推量する助動詞。「他人の目を避けてしまうのだろう」という意味になる。「夜さへや」の「や」が「係り結びかかりむすび」となり、それを受ける「らむ」は連体形(や→らむ)。


 作者、藤原敏行朝臣ふじわらのとしゆきは平安時代の歌人、三十六歌仙の一人。書道でも有名。「古今集」のこんな歌も詠んでいる。


ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる

 秋が来たと目にははっきり見えないけれど、風の音で秋の気配に気づいたよ。

 立秋の日に詠んだ歌との説明がある。2022年の立秋は8月7日。まだ夏真っ盛りのとき。約1ヶ月ずれる旧暦でも、9月は、まだ残暑厳しいとき。それでも暦の上の季節は秋となる。よくよく見れば8月になったばかりで赤とんぼも舞っている。それ以外の秋らしいものは目には見えない。それでも風の気配に秋を感じる。


 住の江の海の波の音を聞く(「夜」という言葉を出すための「たとえ」ではあるが)歌を作った作者は、秋の気配も風の音に感じている。耳で「音」を聞く、聴覚を使って詠った歌二つ。

 いろんな感じ方の歌がある。そんな歌の伝統を伝えていきたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?