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山本美憂という女性について

 10代の山本美憂みゆう(1974~)は、アイドル的な人気を博していた。強くてかわいいアニメの主人公のような存在だった。13歳でレスリング全日本で優勝し、年齢制限で世界大会には出場できなかったが、17歳では世界大会に出場して優勝している。まだ女子レスリングがオリンピック種目ではなかった頃の話。レスリングのユニフォーム姿にもキュンとしていた。
 その山本美憂が、三谷三四郎のYouTube、街録ch街録がいろくチャンネル)に出ていた。それなりに年齢を重ねた姿にはなっているが、なつかしくてすぐに視聴した。


 YouTube は57分の長丁場で、しゃべっているだけなので、興味のない人が最後まで見るには気力がいる。でも、彼女の言葉をできるだけ多くの人に聞いてほしくて、自分自身でも記録しておきたくて、ちょっとだけ文章に起こしてみた。割愛した部分や意訳した部分もあるので、実際の彼女の言葉をYouTubeでぜひとも聞いてほしい。


 世界選手権で2回優勝して、結婚で引退し、また復帰。出産後に幼い息子(格闘家、山本アーセン1996~)を連れて行ったポーランドでの世界選手権では2位。

山本:その時母が大きな病気をして入院を繰り返していたんです。だけど私の試合を見に行きたいって。危ないから、体調悪いから来なくていいと言ったんですけど、お医者さんに「いいよ。行ってきなさい」と言われたんです。後から思えば「人生が残り少ないからいいよ」ということだったんです。体調悪いのに、乗り換え2回してポーランドまで来てくれて、そんな思いまでさせてきてくれたので、絶対優勝したいと思ったんです。だから、そっちの方が悔しかったです。
山本:その日の夜に、母がガンだと聞いてパニックになったんですが、その夜のパーティーで母がはじけているんです。父(ミュンヘンオリンピックレスリング代表の山本郁榮いくえい1945~)とダンスをしたりして。それを見た後にガンだと聞いたんです。最後の旅行だと思っていたのかな。
山本:次の年、私は出れなかったけど、妹(山本聖子1980~、現ダルビッシュ聖子)が世界戦で優勝したことを母は病院で聞いて、そのまま意識不明になって、妹が帰ってくる飛行機の中にいるとき、母は日本で亡くなったんです(享年55歳)。

山本:母が亡くなって3日後に、弟(後に格闘技界のスターとなる山本"KID"徳郁のりふみ1977~2018)がレスリングの大学選手権に出たんです。そんな無理しなくてもと思ったんですが、「こんなことで試合に出なかったら、逆にママが悲しむ」ってことで出たんです。そこで勝っているのを見て、私も3ヶ月後に全日本だったので、3ヶ月集中してからやめようかと思ったんです。(結果は優勝)

 その後、オリンピック代表にはなれず、カナダへ移住し、カナダ代表としてオリンピックを目指している時に、日本から格闘技のオファーをもらい、同時に弟、山本KIDの病気を知る。

山本:弟には危険だからと反対されたけど、格闘技がやりたかったんですよ。やったらいやでも弟のそばにいられる。(その後RIZIN参戦)
山本:弟がグアムで治療したいとなって、弟がグアムへ行くなら私とアーセン(息子)は当然一緒に行く。弟が闘病生活している間、私はトレーニングを続け、その時のメインコーチが今のダンナさん(格闘家のカイル・アグォン)です。
山本:日本での試合を弟はグアムで見て、私が勝ったので号泣してたみたいです。弟は、グアムへ行ってから、痩せてたけど元気になったんです。私がもう一度勝てば、もっと回復するのかなと思って、「次の試合も出させてほしい」と連絡したんです。無理矢理入れてもらって練習していたら、試合の2週間前に弟は亡くなったんです。朝、亡くなって。私は、もう「出る」って決めたので、約束したから勝たないとダメだと思って、その日の夜も練習して、妹(聖子)もついてきてくれて、ずっと見守って、じっと何も言わず見ててくれて、「一緒に体動かす」と言って、やったこともない打撃練習も一緒にやってくれて、練習が終わったと同時に、わっと泣いちゃったんですけど。きつかった日々は、妹に支えられましたね。こんなことは恥ずかしくて本人には言えないけど。


 こんな歴史があって、今でもリングに上がり続ける山本美憂という女性がいる。
 
 

タイトル画像はぱくたそからお借りしました。


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