見出し画像

「魔物語 愛しのベティ」~家族について考える

 三下ヤクザの肝川胆平きもかわたんぺいと、大魔女ベティ・バレンタインの恋と家庭を描くラブ・ファンタジーマンガ(小池一夫原作・叶精作作画)。後に娘のドーターも出てくる。エッチな描写と家族愛の混合が、なんともいえず惹かれていたのはもう昔、1980年から1985年にかけて「ビッグコミックオリジナル」(小学館)に連載されていた過去の遺物だ。あの頃は何が連載されていたのだろう、「ビッグコミックオリジナル」を毎週見ていた。
 そんな昔のマンガがネットで無料で見られる。便利な世の中になったものだ。(次々画面に出てくる宣伝はわずらわしいけど)

 エッチと家族と書いたが、シリアスなストーリーと随所にあるコメディもちょうどいい案配で描かれる。ストーリー展開がなめらかでない部分や、絵があれっと思うおかしな部分もあるけど、全部含めて「愛しのベティ」だ。物語でも、実際は恐い魔女の姿をしているベティも、耳がとんがった悪魔の姿をしているドーターも、全てひっくるめて肝川胆平は愛していく。読者も人間離れしたドーターの姿に親しみを感じてくる。陳腐ちんぷかもわからないが、妻との愛、親子の愛を描いている。


 家族といえば、日本の家族は大家族が多かった。三世代、四世代にわたって一つ家に一緒に暮らしていた。それが核家族が中心となる。
 夫婦二人だけの生活。二人だけの家族ができる。周りに気兼ねなく二人でいちゃいちゃできる。胆平とベティの新婚生活だ。子どもができれば親子だけの生活。祖父母は一緒に住んではいない。子どもが独立すれば、また夫婦だけの生活。一般生活では、老後はエッチな場面は出てこない(うーん、仲の良い夫婦はいるけど……)。それでも家族だから一緒に暮らしていく。連れ合いが亡くなると一人だけの生活。今は、最初から一人だけの単独世帯が増えている。
 時代と年代によって変わる家族ってなんだろう。


 人間に近いサルはどうだろう。ニホンザルはグループで生活する。大大家族のようなものだ。
 もっと人間に近い類人猿はどうだろう。
 チンパンジーはニホンザルと同じようにグループで生活する。グループ同士の行き来も頻繁にあり、行き来するときにはあいさつをする。握手をしたり抱き合ったり、キスもする。人間社会のコミュニケーションと同じような仕組みをもっている。人間と違うのは、あいさつの中にはセックスも含まれる。チンパンジーは乱婚社会だ。誰とでもエッチをする。エッチがあいさつになる。グループ全体が大きな家族のようだ。
 ゴリラは、人間の考える「家族」で生活する。一夫多妻で、1頭のオスと、何頭かのメスと子ども。そういう家族が、単独、あるいは何組かで生活する。
 オランウータンは単独で生活し、家族をもたない。人間を含め、サル類は子どもを未熟児の状態で産み、長い教育期間を持たなければ大人になれない。学習しなければ大人になれないのだから未熟児で生まれるともいえる。だから、単独生活のオランウータンも、子育ての期間だけは母子の生活がある。オスの出番は受精の一瞬だけ。
 オランウータンが家族を持たないのは、家族で生活できるだけの食料がアジアのジャングルにはないから。アフリカで暮らすチンパンジーやゴリラと違って、オランウータンはアジアに住んでいる。自分一人が採取できるだけの食料しかない地域に住んでいるから。
 生活によって家族の形態が変わる。日本人も、住む家が小さければ核家族か単独世帯しかない。



 人間と魔女なんて、生活が全然違う(といっても、人間が想像する魔女の生活なので、人間の想像を超えることはない)。人間と違う生活の中で生きる二人の姿に、自分と同じ部分を発見する。作り物のマンガの中にも、野生のサルの群れの中にも、自分と同じ部分がある。だから共感する。

 「魔物語 愛しのベティ」を読み返しながら、昔の生活が思い出される。夢物語のような「愛」を求めていた。人は「夢」を見るから今日を生きていける。
 最終回までもう少し残っている。早く読みたいし、まだ読みたくないし。名作小説と同じように、半世紀近くも前の作品に、今、夢中になっている。
 

 タイトル画像はMITEINARICOさんの作品をお借りしました。名前のところをクリックすれば元の大きな作品が見られます。タイトル画像の縮小方法を知らないので、作品の一部しか表示できません。
 家族は、見た目と内実が違う。表面に見える姿だけではない。同じように葉っぱも、見た目の姿とは違う姿を秘めている。という言い訳を使いながら画像を借りている。
 でも、なぜか惹かれる作品です。MITEINARICOさんの他の作品にも魅力的なものが多くあります。

MITEINARICOさん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?