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ニート、東北へ行く。~東日本大震災ボランティア記~2S、一~三

以下の文章は3度のボランティア体験について2011年5月~12月にかけて当時書いたものです

一・風になりたくて

 おかげさま。Facebookにそんなこと書いた。いろんな人の手助けがあって、私は再び東北に行くことができ、無事に帰って来られた。でもきっと私は頭では分かっているけど、心では分かってない。感謝してる。それは確かだ。当り前だ。出会いを大切にしたいって言ったのに、どうだ?人を俺は大切にしているか?心が疼くんだ。そのまま憂鬱で動かない日々。
結局書こう。この心の疼きがなくなるよう。再生できるよう。

 今回私は、前回私が東北に行くきっかけを作ってくれた喫茶店のマスター(ボランティア記参照)が理事長のNPO団体に乗っかる形で東北に向かった。写真係になったとはいえ、完全におんぶにだっこだ。それでもって思った。行ける機会があるなら行こう、と。やり残したことたくさんあったろう?まだまだ足りないって思っていたろ?そんな思いが若者サポートステーションや大学でボランティア体験記を話してるうちに、行こうって固まってきた。前回石巻から帰るときには言えなかった「また来ます。」でも、それを現実にできると思ったんだ。

 現地でお世話になったボランティア団体(すべてマスターが手配してくださったことだ!)は、2つの小さなボランティア団体(OとSと称することにします。)。でも小さいからできることがある。大変さも垣間見えた。震災から4カ月。続けてこられたボランティア。そりゃ資金だってバカにならない。支援するボランティアを支援することの必要性を思うんだ。
 だから、どんなことをしているのかをここに書いて、知ってもらいたいんだ。

 11日の夕方、高速飛ばして?岐阜から東松島へやってきた我々は、ボランティア団体Sが本拠にしている“あったかいホール”の向かい側のちゃんこ屋さん「萩の井」の宴会場を寝床にさせていただくことになった。

 そして翌日、岐阜から持ってきた野菜を積んで、仙台を越えて、大河原町の「凛家」へ。料理屋さんってことで大型冷蔵庫もあり、ボランティア団体Oが野菜等食品を保管しているところで、ここから給食センターに持っていったりもするという。そしてこの町の給食センターから石巻へ給食を運んだりもしているらしい。
それ以外にOがやってきること。それは在宅の方々に物資を届けること。行政の支援からすりぬけてしまった人たちへの支援。それも地域の人達のつながりを利用したシステム。地区6世帯ぐらいを1グループとして、グループのリーダーに物資を届けて、そこから分配してもらう形。効率的な気がする。人の少ない団体としてもプラスだ。でも僕らはボランティアのTさんに言われたんだ。「物資を届けた家の人とぜひ喋ってください。」って。効率も大事だけど・・・それより、大切なもんがあるんだってことなんだろう。前回、ADさんが言った「泥をかくことより話を聴くことの方が大事。」やっぱりそういうことなんだ。

今回僕らが行くのは、石巻の渡波地区。そこの御宅に、扇風機やガスレンジ(家庭用のやつね)を届けに行く。岐阜の農家さんから提供していただいたキャベツも持っていく。詰め込んで、さぁ2カ月ぶりの石巻へ・・・。えっ?俺だけTさんと移動?いいさ、いろいろ話聞けるかも?で、つづく。

BREEEEZE GIRL : Base Ball Bear

二・箸にも棒にもかからないこと

「おじいさんは手を握ったまま、ずっと離さなかった。」Tさんは道行く中で話してくれた。6月に会った在宅のおじいさんの話。そう6月なんだ。その日まで支援する人が現れなかった。3か月ずっと孤立していたんだ。その日、Tさんは何か物資を持っていたわけじゃなかったけど、来てくれたことにおじいさんは手を握ったまま離さなかったんだ。
 そんなことがあるってこと。避難所に入らない、もしくは入れない人達。住宅に戻っていった人達は、勝手に戻っていった人ってくくりになるんだ。支援の必要のない・・・。きっと支援したいと思ってるはずだ、行政も。でもそれをやるその前にいろいろとやることがありすぎて、人が足らなくて、手が回らないんだろう。
 手が回らないところの支援。それが小さい団体だからできることってか、やるっきゃねぇもんな的な感じなんだろう。
 他に教えていただいたのは、現地の方の大変な生活のことだった。失業されている方が多いこと、失業保険がそのうちきれるのを考えると、1980円の扇風機さえ買いにくいってこと。政府が住むのを制限してる地区の人々。震災直後から線引きが変わってない地区があること。でもライフラインは復旧していること。その制限が解かれるのか、それともそのまま居住禁止になるのかわからないから、家を直すことに躊躇していること。住めなくなる家にお金をかけられるのか?ってこと。

 支援することで人々の自立が遅れるって言うけど、今はそんなこと言ってる場合じゃない。それが手の回らない地区を支援してきたTさんが見た現実なんだ。
 ふと、目を外に向けると、高速から、ガレキの山が見える。石巻市が処理しなきゃいけないガレキは107年分だったか、110年分だったか、とにかくとてつもない量だってことを教えていただいた。

 2か月ぶりの石巻。前回、横をバスで通っていった石巻駅の目の前に立つ。鼻を突くにおい。そう雨の日和山で感じたような(ボランティア記参照)。それがここでもするのか、と心が揺れた。
 石巻市街地はまだ信号が点いてなかった。警察の方が誘導していた。変わらない、そんなことを思うんだ。
 渡波地区に近づくにつれ、倒壊したり、一階ががらんどうになってる家屋、積まれたガレキ、倒れた電信柱が目立ってくる。今回始めて感じた被災。うわってなる。でも、どこか慣れている。二回目の私には初めてのほどの衝撃はない。そうなってしまう。
 うわーってなっても落ち着いていた気がする。それとも、写真係として写真撮ることに精一杯だっただろうか。今になって思う。精一杯になりすぎて、画面を通してでしか、現地を感じることができなかったのではないか。あたしの消化不良は、そんなところから来てるのではないか。なんて、ただ写真家として失格なだけだね笑。

 ほぼ壊れたガソリンスタンドでマスターたちと合流。営業再開したばかりって言うお食事処「味楽」さんで天ぷら定食をがっつり頂き、ついで岐阜のキャベツもどうぞ。そして、物資を届けに行く。

YUI : again

三・私たちの明日に

 正直、なんだこれは。と思った。暑くなってきてハエが多いとは聞いていた。でも、こんなにも・・・。ってその御宅の方に聞けば、少し前はもっと大きいハエがたくさんいたという。ハエ取り紙にくっついても、紙がブランブラン揺れるぐらいでかくて勢いのあるハエがいたんだ。


 それからこれ。ハエ取り器。ペットボトルに酒と砂糖と酢を入れたもの。黒いのは全部ハエって・・・。

 今回、5件のグループリーダーさん宅に扇風機やガスコンロを届けた。話も聞けた。
 ある御宅の方は大工さんが足りないっておっしゃってた。別の県からも来てるみたいだけど、冠水した一階を直してもらおうとしても、忙しくてやってくれる人がいないと。別の御宅の方は、大工さんがいないから・・・と自分たちで直されてる途中だった。
 また他の御宅ではちょうど一階を修復されたところだった。玄関からピカピカの廊下が見えた。震災当時の話、津波が来るって高台まで逃げた。その後、2階は大丈夫だったから2階で住んでいたんだけど、しばらくは逃げた先で出会った人達を連れて一緒に暮らしていたという。扇風機の到着をほんとうに喜んでくれた。夕方になると浜風が吹いて、涼しくなるけれど、やはり昼間は非常に暑かったもの。
 岐阜の農家さんから提供のキャベツもみなさん受け取ってくれた。弁当を朝昼晩もらってるからいい、って方もいた。そう、リーダーさん宅に近所の方々が物資を取りに来ていたんだ。食べ物とかも一度リーダーさん宅に届いてから分配されるんだろう。
 一番ひどいんじゃないかって地区の御宅の方が私たちにペットボトルのお茶をくれた。そう、やっぱりみなさん、あたしたちに優しいんだ。「お疲れさまです。」とか。岐阜から来たことに「遠いところからありがとう。」って。

 俺たちはやっぱりこの思いになんか応えなきゃいけねぇんだ。だから来たんだろう?もう一回。そしてこれからも。でもその方法に迷いが生じている。どうしていくか、書くうちに何か見えればいいんだけど。

 日も暮れ始めてきたのでお届けは終了。その後Tさんが冠水地区の方を車で案内してくれた。・・・道路が土で盛ってあった。家の前に比べて道路がかなり高い。そこまで冠水するってことなのか・・・?

 ここで暮らしている人達を思う。5件周ったんだ、それに近所の方の姿・・・顔を思い出すんだ。明るく喋ってくれた人もいた。ほんとうに疲れた表情をしている方もいた。4カ月・・・。まだ4カ月。これからも日々は続くんだ。

 で、俺はどうするんだ?

 ベッドタイムストーリー Jazztronik feat. YUKI


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