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京都の湯豆腐、沖縄のゆし豆腐、さて東京は?

今日は豆腐の日だった。朝も夜も豆腐を食べた。
わざとではない。無意識にそうしていて、食べた後になって、そういえば京都といえば湯豆腐だよなって思い、今日は豆腐の話を書くことにした。

京都から見た東京を書くと言い、前回の締めに、「次回は深夜喫茶しんしんしんについて」と言っときながら豆腐の話。まあ許してくださいませ。「しんしんしん」の話はいずれ必ず書きまする。

というわけで、豆腐の話。

今朝はいつもの気功を終えて、気功仲間4人で、今日から始まった「朝なぎ*ゆし豆腐朝定食」を食べに行った。東京でベジ料理のなぎ食堂をやってる小田さんが京都にUターンして、いろんな場所を借りてはいろんなベジ料理を提供してるのだが、その新しい展開の一つがこのゆし豆腐。銀閣寺の近く、吉田山の麓の神楽岡通りを入ったところにできた浜口商店というシェアスペースで、これから毎土曜日の朝、提供するそうだ。

ゆし豆腐とは沖縄の豆腐で、固める前のおぼろ豆腐のようなものらしい。ゆし豆腐の朝定食をやるというのはちょっと前から聞いていたが、浜口商店に行って浜口さん夫婦と話をしても、彼らもゆし豆腐の正体を知らないというし、私も調べる気もなく、ゆし豆腐って何でしょうね、見るまでのお楽しみとかなんとか言って今日を迎えた。

事前情報として聞いていたのは朝なぎの豆腐は滋賀県でとれた美味しい大豆を使うということ。滋賀の大豆がどういうものかはよく知らないのだが、以前、白州正子の近江山河抄に合わせた取材をしたときに、滋賀というのは古くは京都という都を準備した場所であり、琵琶湖の水を湛えたバックヤードの豊かさと偉大さを知って驚いたことを思い出し、滋賀の大豆なら美味いに違いないと期待した。

果たして、少ししょっぱい温かいスープの中にゆし豆腐はもろもろと浮かんでネギの小口切りを纏ってやってきた。色もちょっと黄色みがかって卵とじのようにも見える。食べてみると、思っていたよりモサモサと素朴な味わいで、都では削ぎ落とされてしまうであろう粗野な感じも残していた。

食べた後に調べたのだが、ゆし豆腐とはおぼろ豆腐のような固める前の豆腐のことだそうだ。ただ、普通の豆腐の場合、大豆を水につけふやかして、すり潰した「呉」と呼ばれるもの(豆乳とオカラが混ざった状態のもの)を煮てから絞るのだが、ゆし豆腐は呉を絞ってから煮るのだそうだ。煮ないで絞る方がタンパク質が損なわれず栄養豊富な豆腐になるらしい。だから味もワイルドなのだろうか。

朝定食にはもちろん豆腐の他に玄米ご飯とおかずもついていて、でも、そのお惣菜たちも、沖縄の豆腐に合わせたのか、純和風ではなく、ちょっとエスニックな風味。韓国っぽい辛味噌から、南国のココナツで和えたインゲンとか、ひじきはバルサミコで煮てあった。いろんな味がひしめくのはまるで人種の坩堝のようでもあり、それは、ゆし豆腐の味の強さに合わせたらそうなったようにも思えた。ベジ料理ではあるが、強さを感じる献立。しかし、お腹にもたれたりもしない。

大豆の粗っぽさも全て逃さず取り込んだような、そんな素朴な強さを初めて食べるゆし豆腐には感じた。

一方、夜に食べたのは京都の豆腐屋の豆腐を使った湯豆腐。
あの俵屋旅館でも使っているという平野とうふの白豆腐(木綿)だ。初めてこの豆腐を持ち帰って、湯豆腐にし、一口食べたとき、「あれ?おいしい」と思った。あれ?っていうのも変だが、豆腐のおいしさというのはなかなかにわかりづらくて、いつもおいしさに気付かぬまま食べていることが多い。しかし、この豆腐は珍しく、意識的に、これおいしいよね?と思った。半信半疑なので、俵屋というブランドに舌がだまされているのかもしれないとも思い、その辺をちゃんと意識してあらためてもう一口食べてみると、やはり美味しかった。

豆腐のおいしさを表すとき、よく「豆の味がする」と言うが、そういうのではない。確かに豆の味もするが、そういう意味でおいしい豆腐というのは他にいくらでもある。正直、私はこれまで、そういう豆の味がする豆腐の“豆の味の仕方“のどれが自分にとっての正解なのかよくわからないまま豆腐を食べてきた。大抵冷奴で、時には醤油ではなく塩で食べたりして、豆そのものを味わおうとするが、甘味が強いのがいいのか、ちょっとほろ苦い感じもあるのがいいのか、自分の好みとしてもどっちでも良かったりして、いつも「まあおいしいね」って感じで、この数十年を生きてきたのだ。

しかし、この平野とうふの白豆腐のおいしさはそういう豆の味の味わいとはまた別のところにあった。

買ってきて、蓋を取り、一口スプーンで掬うと、確かに、「豆の味がしておいしいね」という言葉が当てはまるようなおいしさも感じる。しかし、私が感動しているのはそこではない。この豆腐が力を発揮するのは湯豆腐だと思う。湯で茹でられることで全く別物に変身する、その変身の見事さだ。

今日はお湯に昆布を入れ、椎茸、舞茸、ネギ、ブロッコリの仲間のなんとかセニョール(?)と白豆腐。一度沸騰して、中火にした鍋の中に、豆腐を落とす。豆腐がお湯の中で踊り出したら、掬い上げて食べる。

なんとプルプルしているのだろう。生でスプーンで掬って食べたときは、素朴なザラザラした食感があったが、お湯に入れると、まるでゆるい絹豆腐か、甘くないプッチンプリンになったみたいに、密度が低くなってふわりつるりと口の中に滑り込む。軽くてつるりん。どこの豆腐も温めれば、柔らかくはなるが、ここまで軽く滑らかになるのは初めてだ。俵屋が出す豆腐ってこういうことなのか。味というのは味だけではないと思い知る。

お湯に入れることで、粗野な部分が消えて、洗練された喉越しのいい豆腐に変わる。何かアクが湯に溶け出したかのようだ。残るのはすまし顔の洗練ではなく、プリンに感じるようなプルプルした可愛らしさ。でも芯はある。筋は通っている。そして、熱々の豆腐がつるんと口に入ると、口の中は熱々で、私は冷静ではいられない。すまして食べることができず、いつの間にか豆腐に気を許している。そして、気づけば、買ってきた一丁を1人で食べてしまっている。

特にこの平野とうふの白豆腐においては、驚くほどの変わり身。食通ではない私の目をも見張らせるほどなのだ。京都の名物が湯豆腐なのは、この熱い湯に入れることによって生まれる豆腐の食感こそが都人の楽しみだったからではないのだろうか。。

朝のゆし豆腐は素朴さをそのまま残し、栄養も残し、その日一日働く力を与えてくれるようなパワーを感じる豆腐だった。一方で、夜に食べた京都の最高の湯豆腐は1日の疲れを癒してくれる楽しいつるりんの心地よさ。これって、大吟醸のお酒のようなものなのか?なんて思ったけれど、大豆は米のように削ったりしないし、単純にイメージだけの話。

豆腐というものの製法において、何を変えればこうした洗練した豆腐になるのかはわからないが、作り方がどうあれ、この京都らしい軽やかな食感も、元の大豆の素材に強さが無ければ多分生まれないはずだ。核の部分が人に感動を与えるおいしさになるかどうかはいかに外側の粗野な部分が充実しているかにもかかっているのだろう。

湯豆腐食べながらそんなことを考えていたら、今の東京の洗練とは程遠い状況は、地方という外側の部分の疲弊の結果だということをあらためて思い出した。外側の充実を図らずして、中央が洗練され、人を感動させることはない。

東京を延命するために行われるオリンピック。多分。でも、東京をオリンピックというカンフル剤で延命するより、地方全体を底上げすることの方がよっぽど東京を力付けることになると思う。

じゃあ、東京のおいしい豆腐とはどういうものなのだろう。
湯に落として、ぷるんと軽やかに変身する京都の豆腐とも違う、栄養をそのままのこすワイルドな沖縄の豆腐とも違う。毎朝、定番で食べるお馴染みの冷奴や味噌汁の豆腐。驚きもないけど、毎日食べるものはこれじゃなきゃねという不動の定番感。京都のようにヒノキの桶で茹でられたりしたら、気恥ずかしくて身を硬くしてしまいそうな実直な豆腐。ポストモダンの国家に求められ、そんな国の首都に求められるのはそういうものなんじゃないのかなと、最後ちょっとこじつけちゃったかなあと思いつつ、豆腐の話を終わらせていただきます。

なんだか、文章書くために考えちゃったような文章になっちゃいましたが、今日食べた豆腐が美味しかったのには変わりないのです。そして、そこから色々考えさせられたことも。
来週の土曜日もゆし豆腐定食には行くと思うし、また、街に出たら、平野とうふに寄って帰るでしょう。

ちなみに、平野とうふの豆腐を封を開けないで冷蔵庫に入れておいたら、買ってきた翌々日の朝には酸っぱくなりかけていました。豆腐って本来はこのくらい足が早いもんなんでしょうね。最初、平野の豆腐を買ってきたとき、パッケージの蓋に消費期限が書かれていなかったので、薄々そうは思っていたんです。これって今日中に食べろって暗に言ってるってことだよなって。そもそも、冷蔵庫にしまうことが文明が生んだ怠惰。豆腐なんて日持ちを考えて買うものじゃないんです。そんな便利生活の中でいつの間にか忘れてしまっていたことを平野の豆腐は思い出させてくれました。このところ、SDGsなんて言ってますが、豆腐はその日に食べ切る。そういう生活を復活させることが一番、SDGsへの早道じゃないかと思います。なんだ、最初からこの話を書けばよかった。。。

では、また!

本屋の話も書いてないし、深夜喫茶しんしんしんも・・。


ただいまお手上げ状態脱出画策中。経済、乳がん、住宅ローン、とりあえず、お金を稼いでゆったり暮らせる状態を作るのが目標。乳がんは特に症状はなく、金欠だし、標準治療してないのですが元気です。