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これまで私は科学とか科学的とはどういう事を言うのかということをずっと考えてきました。

私は医師であり、また科学やテクノロジーが好きであり、物事の本当のところ、本質や真理の探究に惹かれて、それを求めています。

しかし、今現在の科学とされているものの範囲がどうしても狭く捉えられているように感じており、世の中が科学を過小評価しているのではないかといつも感じています。

例えば、自分の理解を超えた現象などを前に、簡単にその現象を非科学的と否定しまう姿勢をこれまで何度も目にしてきました。

それゆえ、私は世の中の人が考えている「科学」とはこういうもので、それ以外は科学ではないというように限定された押し込められた範囲を、もっと広く本来の科学がもちうるポテンシャルまで科学の範囲を広げたいという謎の情熱を持っています。(笑)

科学の探究方法について以前もこのnoteで考えましたが、私はよりシンプルな答えを求めていました。

そんな中、少し前にクリパルヨガをされている方との話の中で、科学とは何なのかと言うことについて、とても腑に落ちた事があったので今日はそれについて書いていこうと思います。

辞書の中の科学の定義

まず現在広く用いられている広辞苑での科学の定義はどうなっているでしょうか?

かがく【科学】
観察や実験など経験的手続きにより実証されたデータを論理的・数理的処理によって一般化した法則的・体系的知識。


みなさん、この定義をそのまま100%腑に落とすことが出来ますか?

私は正直、この定義はそれっぽく言っていますが、理解しにくいと思ってしまいます。

この定義を自分なりに噛み砕いてみます。。

観察とは、広辞苑の定義にありますが、物事の真の姿を間違いなく理解しようとよく見ることです。

実験も結局、そのプロセスや結果を「観察する」必要があるので、実験など経験的手続きというのも、最終的には観察という行為に含まれると思います。

実証されたデータとは、難しい事を言っていますが、観察によって確認されたものということかな。

論理的とは難しいですが、要するにストーリーに筋が通っているということでしょう。

数理的とは、数学の理論。これもつまるところ、数学の世界で筋が通っているということ。数学のルールの中で矛盾がないということ。

一般化とは、個別的な違いを捨て共通のものを残すことによって誰にも広く通じる概念・法則を作ること。

体系的はシステマチックなという意味

知識は知っている内容

噛み砕いたら余計わからなくなってしまいそうです。。


要するにぎゅっとまとめると、

科学とは観察によって確認されたものを筋が通った形でみんなが使えるようしたもの

と言う感じでしょうか。

自分としてはなんとなく、納得感が少し増しました。

ただ、自分にはまだ完全には満足できないと言うか、しっくりこない感覚があります。

評価をまじえずに観察することは、人間の知性として最高の形である

これはインドの哲学者、ジッドゥ・クリシュナムルティの言った言葉です。

クリパルヨガをライフワークとして真実の自分を探求している方からその言葉を教えてもらったのですが、私はその言葉に雷に打たれたような衝撃を感じました。

これこそ私が探して求めていた言葉だと思いました。

それこそが科学的アプローチそのものなのではないかと思ったからです。

ヨガは呼吸への意識や動きを通して自己観察を繰り返します。そのことにより真実を探究するアプローチです。本来のヨガは自己観察というのを最も重視し、またヨガの目的もそこにあります。

私はこの評価を交えずに観察することこそが、真実や本質へとたどり着く方法だと認識しています。そこには思い込みや期待、こうあるべきだという観念は一切ありません。それこそが私は科学なのだと思っています。

それをシンプルに科学の定義とした場合、今の科学の定義がもっと広がるように思います。実験や研究も、結局は観察の積み重ねです。仮説は建てても良いですが、いかに期待や個人的価値観を交えずに観察するかが重要だと思います。

真に科学的であることは、それなりに難しい

しかし、私たちには様々な観念があり、自分や自分の周りで起こる出来事をジャッジしてしまう癖があります。

そうすると物事をありのまま観察することが出来なくなってしまいます。物事の真の姿を歪めてしまいます。

昨今のコロナワクチンの是非についてもどんなにその道の専門家であっても様々な意見があります。そうなってしまうのは、同じエビデンスを知った上であっても、最終的にはそのエビデンスをどう解釈し、どう利用するかはその人それぞれの価値観による判断や期待が理論上どうしても介入するためです。また「正しさ」は人の価値観の反映であって、正しさを主張している間は唯一の合意が得られることはないでしょう。みんなそのあたりのところで苦しんでいるように見えます。

TwitterなどのSNSを中心に大きく感情に任せたやり取りが繰り広げられています。知識を振りかざして、この論文にはこう書いてあったからこうだとか、こっちが正しいと主張しています。

しかし、結局私は、知識を振り回してやり取りをする中には真実は存在しないと思っています。同じエネルギーを別の角度からぶつけ合っているだけに感じます。どんな主義や主張にも、その次元には真理はないと思うからです。人は立場や状況、価値観や観念によってどんな立場にもなりえます。正義論において、功利主義をとるか、自由平等主義をとるか、完全自由主義をとるかでも主張は変わってきます。

知識はあるに越したことはないですし、必要だとも思います。しかし、知識に飲み込まれ、それを振りかざして人を裁いたりする事は何も好ましいことは産み出さず、またそこには真理も存在しないでしょう。知識は幸福のために知恵を持って利用するのであって、人をジャッジするために持ちいられるべきではないと思います。

解釈も評価も交えずに観察することは、相当に難しいことですが、真実を知るために最も大切なことなのだと言うことを私たちは日々突きつけられているのではないでしょうか。そして観察を通して自分にとっての真実を見つけていくことが大切なのではないかと思います。

真に科学的になれたとき、私たちは自由になる!?

私たちは日々常に休むことなく何かを体験し、そしてそれを同時に観察をしています。そしてそれを往々にして評価し、様々な感情を体験します。その評価の元にあるのが自分の中にある観念です。観念からジャッジが生まれ、感情が発生します。そしてそれがストーリーとして繋がっていき、記憶となり、それが「過去」と呼ばれるものになります。

過去とは、「今」その人の中にある記憶です。
記憶には感情が結びついており、またその感情には自分の中にある観念が結びついています。

私は最近ヨガの先生や医療者の仲間と一緒に月に1回トラウマについての読書会をしています。誰にでも大なり小なりトラウマや精神的なブロックのようなものがあると考えており、医療をしている私たち自身がまずトラウマに向き合い、癒される必要があるという考えのもとそれぞれ学びを深めています。

その中で徐々に理解しはじめていることがあります。

トラウマは決してストーリーを「理解する」必要はないということです。むしろストーリーを手放す必要があるということ。

過去のストーリーというのは「今の」解釈や観念、価値観であり、条件付け、概念化された思考です。つまり「今の」観念が変わることで、過去に対する感情が変わり、過去そのもののストーリーも変わっていく可能性があるように思います。

そう考えると、以前私は病気の氷山モデルというのを考えてみましたが、あのプロセスというのは、過去から現在という時間軸があるようで、本当はそうではなく、全て「今」自分の中で起こっているストーリーなのではないかということに最近気がついてきました。

診療には、プロセスやストーリーが情報としては重要ですが、あまりそこに固執し過ぎると、今を見落とします。

時間をかけて、身体や心や感情や魂レベルで、「今起きている真実はなんなのか」をただ気づき、観ることができれば、実は過去の出来事そのものも癒やされていくものなのかもしれないなと思うのです。

そういう意味では、真の意味で私たちひとりひとりが「科学的」であれた時、苦しみはなくなると説いたのが、ブッダやヨガの教えのような気がします。

最後までお読みくださいまして、誠にありがとうございます。

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