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脚本家の矜持~日本テレビの某ドラマに関する報告書を読んで

原作者の訃報をきっかけに、原作ありドラマの制作等について、日本テレビと小学館から報告書が出されることとなりましたが、取り急ぎ、日本テレビの報告書および、概要、別紙1~3を読んだうえで思う所を書きたいと思います。

私はマーダーミステリーというシナリオ型のゲームを制作しており、舞台用の作品を執筆して脚本・演出の方とやりとりの経験もありますが、作家というのも烏滸がましく、まだまだ立場としては意見できるものでもありませんので、あくまで超個人的な感想として読んでいただければ幸いです。

結論

書面は5つに分かれており、メインとなる報告書だけでも91ページあります。正直、内容は視点や着眼点を換えただけで、同じ内容の繰り返しとなっている部分が多いです。

その中でも、今回の騒動の根幹であり、結論であると思しき文章がPDF報告書の78ページに記載されています。

78ぺージには

最後に、今回の直接的な原因とまではいえないが、本件を通じて浮かび上がった小学館と日本テレビの根本的な立場や考え方の違いについても指摘しておきたい。 それは「原作」という作品に対して向ける視点の違いである。

https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240531.html  PDF報告書78ぺージより引用

という文章から始まり、「立場や考え方の違い」がどのようなものか次のように書かれています。「直接的な原因とまではいえないが」とありますが、私はこれが結論であり「根源」であると感じています。

いうまでもなく、日本テレビは、著作権者にあたる原作者(ライセンサー)から、原作の利用許諾を得た上で、新たにドラマを制作・放送するライセンシーという立場である。もっとも、そうではあるものの、今回当調査のヒアリング等を通じ、制作サイドにおいては、原作を映像化するという作業の中で、原作を何ら改変しないことは基本的にないという考え方が標準的であることや、原作をもとに、どのようなエッセンスを加えれば、より視聴者の興味を惹きつけるドラマにできるか、という考えを少なからず持って企画・制作に当たっているということが分かった。これは、ドラマという映像コンテンツはあくまでもテレビ局の作品であるという考え方が根底にあるものと思われる。 この点に関して、小学館S氏は当調査チームの質問に対して、あくまで個人の見解とした上で「ドラマ制作という一面だけを見れば、作家の先生や担当編集部、担当編集者はテレビドラマの制作者あるいは制作協力者ではない。作家の先生、担当編集部、担当編集者は、利用許諾者(ライセンサー)であり、監修者であるから、制作者側(ライセンシー)と必要以上に相互理解を深める必要はない」、「ドラマ制作者の意図や思いといったものは、作家の先生がそれらを受容可能か否かで判断されるべきことであり、双方協議の上、落としどころを調整するようなものでない」、「貴社に限らず、ドラマ制作者側は、ドラマ制作にあたり原作作品を改変するのが当然で、原作作品の設定やフォーマットだけ利用して、ドラマの内容は制作側が自由に改変できると考えているように見受けられた例が多数ある。…ドラマ制作者側のそういった意識の改革が必要」、「原作を利用する以上、必要最低限の改変とすべきだということをドラマ制作者側が認識すべき」といった回答をしている。

https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240531.html  PDF報告書78ぺージより引用

太字が多くなってしまいましたが、要約すると「あくまで利用許諾者(ライセンサー)と利用者(ライセンシー)という関係であって、原作はドラマ制作者の物ではない。故に自由に改変してよいものではなく、(コンテンツ制作上)止むを得ない場合に変更が許されているだけであるという意識を持つべき」ということです。

この意識がないからこそ、出版社側が「はっきりとした要望」として、脚本が原作者の意に沿わない場合に、原作者が脚本を書く可能性を告げているにも関わらず、重く受け止めずに脚本家降板まで話が拗れる結果になっています。ドラマ制作者側は「こっちにも都合があるんだから改変は不可避。要望無視してもなんとかなるやろ」程度の認識に見えてしまいます。「許諾の条件じゃないし……」で「要望を聞き入れなくてよい」という判断が信じがたいです。

制約があるからこそ、そこにプロが必要になる

テレビドラマというコンテンツに、マンガや小説を嵌めて行く仕事はとても大変で難しいことが予想されますし、そこには技術や、それに伴う確固たるプライドがあるのでしょう。

しかし忘れてはならないのは、原作が存在する以上、ドラマというコンテンツに転換する際の改変は、その作品を正しく表現することを第一とするべきである点です。「正しく表現する」には、作品の面白さを表現することも含まれるため、演出面でアレンジするなども勿論あるでしょう。見た目からカット割りから原作に忠実にコピーするという意味ではなく、その原作の持つ魅力やメッセージを伝えるために、コンテンツに合った改変をしていくということです。

「時間」「キャスト」「予算」「映像手法」など、制約があるなかで制作するわけですから、何度も言いますが、とても難しい事かと思います。しかし、そういった制約の中で、原作に忠実にドラマや脚本を作り上げるからこそ「プロ」なのだと思います。

加えて「原作を正しく表現する」という要素も制約のひとつなため、この大事な制約の優先度を下げて制作するのであれば、逆にそれはプロの仕事ではないように感じます。

「意識の改革が必要」と言われてしまっているのは、まさにその通りで、他社が権利を持つ原作ががあって、それを改変する以上「自由な改変」などなく、内向きにも外向きにも「制約の中での改変」しかありません。他人様の物を自由にこねくりまわすことが出来る……と思うのがそもそも勘違いだったのかと思います。

脚本家の矜持と「ベテラン」という腫物?

私がとても気になったのは、PDF報告書の18ページにあるこの2つの記載です。

「『書き起こし』のようになることも考えられるので、ベテランよりも経験の浅いそのまま全部言うことを聞いて書いてくださる脚本家さんの方がよいのではないか。ベテランにそのようなことをお願いするのは恐縮である」

https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240531.html  PDF報告書18ぺージより引用

本件原作者の了承がどうしても得られない場合は、本件原作者自ら脚本を執筆する可能性があることについて本件脚本家に了承を取っておいてほしいことは言われたことはなく、もし言われたのであれば、この時点で本件脚本家に伝え、ベテランでもある本件脚本家は本件ドラマの脚本から降りたであろう、ということであった。

https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240531.html  PDF報告書18ぺージより引用

私はこの2つの物言いを見て「ベテランの脚本家に原作者の言い分を全部通して貰うのは失礼である」というニュアンスに感じました。いかがでしょうか?

単純にテレビ局側がそのように忖度して言っているだけなら良いのですが、もし、ベテランの脚本家本人が、原作者の思惑通りのものを書く=独自アレンジを入れない脚本起こしを依頼されることを「失礼」と感じるのであれば、それは「傲り」だなと感じます。

PDF報告書の30ぺージには表現として「ロボット的な脚本起こし」という記述もありますが、いかに「ロボット的」だとしても、前述したようにテレビドラマというコンテンツに嵌める技術は必要で、加えて、原作者の意向を「そっくりそのまま」というオーダーも付与されるため、独自アレンジを加えて尺に納めるよりよっぽど難易度は高いでしょう。

C氏はA氏に対し、オリジナルで挿入したセリフをマストでなければ削除してほしいと言ったところ、A氏は、それでは本当に本件原作者が書いたとおりに起こすだけのロボットみたいになってしまうので本件脚本家も受け入れられないと思う旨答えた。 その話し合いの後の夜10時過ぎに、C氏からA氏に、 ・ 残り9,10話に関しては「ロボット的な脚本起こし」をお願いする、それができなければ、脚本家を変えてほしい、とD氏からB氏に伝えたはずである。それくらい今はギリギリの状況である、 ・ 10話はドラマ制作側が作ったオリジナルが大量に入っているので、このままでは原作者に見せられないので、プロットのやりとりに戻させてほしい、原作者が書いたプロットにどれくらい尺が足りないかを明示してほしい 旨のメールが来た。

https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/20240531.html  PDF報告書30ぺージより引用

要は、これをベテランと言われるプロがやらずして誰がやるのか?ということです。もちろん向き不向きがあるので、必ずしもベテランだからと言って「ロボット的」に出来るかは分かりませんが、少なくとも「ベテランだから失礼」なのではなく、言葉を選ばず言えば「(独自アレンジにこだわりを持つ)難しい脚本家」だから依頼するのが失礼と感じている(もしくは脚本家自身本当にそのように考えている)故に、忖度して言えなかったというだけかと思います。

本件脚本家は、原作ありきのドラマを多く手掛けており、独自アレンジが強く、原作ファンや原作者から度々苦言を呈されている方と見受けます。報告書では「ミスコミュニケーション」という言葉が多用されていましたが、端的に言えば原作者との相性が悪く、ミスは「コミュニケーション」より「キャスティング」にあると感じます。そしてそもそも、「独自アレンジ」をしたことで原作者にまでお気持ちを表明されてしまうなら、そのアレンジは「自己顕示欲の発露」でしかなく、それをやりたいなら、自身でオリジナル脚本を書く方が建設的です。借り物でやることではありません。

私も脚本家や演出家の方とやりとりをしたことがありますが、「ラリーで作品を良くする」というやり方自体は理解しつつ、その修正内容から「作品の趣旨が理解できていないのではないのか?」と思うことが多々ありました。

私の場合は作品が書下ろしであり、先方も初見であったため、理解が低いのも仕方なく、感情を吸収できましたが、そもそも原作漫画が連載されていて、先方から「ぜひ貴方の作品を使わせてください」と来たのであれば、作品理解の浅い内容を繰り返しラリーで指摘するのはかなり苦痛であったと思います。

原作があるのであれば、テレビ局の制作担当ももちろんですが脚本家も、原作を理解し再現することを矜持として欲しいと思います。

何度も言いますが、難しいとは思います。ただ、それこそ「NETFLIX」では、日本の漫画の実写化がいくつも成功しています。確かに海外資本であるため「予算」は潤沢でしょうし、配信コンテンツであるため「映像の時間の制約」は緩いかもしれません。しかしながら「原作の制約」は変わらずある中で、原作からかなりアレンジもされており、それでもなお「原作リスペクトが感じられるアレンジである」と好意的に受け取られています。要はアレンジそのものが悪いわけではないということです。

最後に

時間と相談しながら小学館側の報告書も読み進めていますが、前述した著作物への姿勢や、許諾のタイミングなど、小学館側の言い分の方が今のところ腑に落ちる内容が多いと感じています。

一方で、出版社側も、映像化をプロモーションの一環として捉えるあまり、作家に負担をかけるやり方になってしまっていないか?という側面も感じます。

また、テレビというコンテンツのインフルエンス力が弱まっている昨今、原作者に多少思うところがあっても「その分対価もあったから発信は控えよう」なんて考えも弱くなっているのかな?と感じます。

SNSも日常的に使われるようになった昨今、色々なことが可視化され、今後も同様のことが起こる可能性が非常に高く、ドラマ制作者というライセンシーの意識改革は急務であると感じます。

サポートは今後のマーダーミステリーの制作に使わせていただきます。それ以前に、サポートは皆さまのダイレクトな応援なので本当に励みになります。ありがとうございます!