はじめに:エッセイって何だろう?

 エッセイを書こうとしたときに最初にぶつかる壁は「エッセイとは何かよくわからない」ということではないでしょうか。少なくともわたしはそうでした。今までいろいろなエッセイを読んできたはずなのに、いざ自分が書こうとするとわからないのです。辞書を引いてみても「自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想」と書いてあるだけで、これってつまり、何でもありだと言ってるだけじゃないか、と途方に暮れてしまいます。


 実際何でもありで、書き手が「これはエッセイだ」と言えば誰も反論できません。が、味わい深いエッセイとそうではないエッセイの違いは確かに存在します。いったいどこに違いがあるのでしょうか。


 エッセイは自分の心がどんなふうに動いたのかを伝える文章だとわたしは思っています。自分の心を見つめて言葉にする。それさえできれば、何を書いてもしみじみと味わい深い文章になります。素材はタダ。取材に行ったり、誰かに協力してもらったりすることもありません。いつでも誰でも気軽に取り組むことができます。そんなおいしい話があるなら、誰でもエッセイ書きますよね。何か罠があるんじゃないかと疑いますよね。

 はい、あるんです。大きな罠が。


 自分の心がどんなふうに動いたのかを言葉にするのは、とっても難しくて面倒くさくて頭が湯気が出るほど想像力を使う大変な作業なのです。いま、わたしはこの文章をすらすら書いていますが、ここには情報はあれども、わたしの心がどのように動いたのかは書かれていません。だからすらすら書けるのです。でも、エッセイや小説の場合は違います。一文書くごとに、ここではどんな気持ちだったのかを考えて悩んで言葉を試行錯誤してようやく見つけて書いてみてはやり直して……という作業をするため、この文章を書く十倍以上時間がかかります。


 この文章は、誰かにおしゃべりするときと同じ状態で書いています。脳と文が直結している感じです。でも、自分の心の動きを書くときには、そういうわけにはいきません。いったん相手に背を向けて、ぱたんと扉を閉じて自分の心の中に深く深く潜っていかなくてはなりません。そして手探りでどうにかこうにか感情を表す言葉を拾い上げて、それを地上に持っていって光に晒してみて、きれいに磨いて届けられる形にして、そうしてようやく扉を上げて、相手に手渡すのです。


 こんなことは普段の対面のコミュニケーションではやりません。しゃべっている途中で意識が何十分もどこかへ行ってしまったら、救急車を呼ばれてしまうかもしれません。


 軽やかにすらすらと書かれているように見えるエッセイの文章も実は、そんなふうに心の奥へ潜って戻ってくるという大冒険を繰り返した最終結果なのです。もちろん、それを何度も繰り返して筋力も体力も能力も磨き上げたエッセイストは、本当に軽やかにすらすらと書くことでしょう。


 でも、これからエッセイを書き始める人は、軽やかにすらすらに書けないことを覚悟しておいてください。もし書けているとしたら、それは「自分の心の動きを書く」ことができていないのではないかと疑ってみてください。
 自分の心の動きを書く。これをマスターしたら誰でも味わい深いエッセイを書くことができるのです。この「技」は、エッセイだけでなく小説の文章にも役立ちますし、個を見つめる文芸の文章の基本になるのではないかと思います。


 ぜひ、楽しみに学んでいってください。

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京都在住の小説家です。医学(博士)です。理系ライターもやっています。

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