エッセイはリラックスして親しい友達に話しているイメージで書く

 話し声にいろいろなテンションやトーンがあるように、文章にもトーンがあります。大勢の人が行きかうなかで大声張り上げて呼び止めるような文章(広告の文章など)、ほかに誰もいない静かな部屋で一対一でじっくり向き合うような文章(紙の小説の文章など)、プレゼンをするような演説をするような文章(ビジネス書など)、無駄を排して情報を効率的に伝える文章(ビジネスや行政の書類、新聞)などなど。どんな人にどんな目的で届けるかによって、文章のトーンは変わります。

 では、エッセイはどんなトーンでしょう。エッセイによって違いはありますが、おおむね、リラックスして親しい友達に話しているようなトーンだと思います。良いエッセイを読むと書き手に対して親しみが湧き、まるで昔からの友達だったような気持ちにならないでしょうか。ここにさっそくエッセイの「技」が隠されています。

 本当に親しい友達に向けて書くときは何の技もいりません。でも、エッセイを作品として書こうとする場合は不特定多数の見知らぬ人にも届ける文章を目指してほしいと思います。親しい友達に届けるような気持ちになりつつ、です。

 初対面の大勢の他人の前に出て、さあ何か話せといわれたら、普通の人は少し緊張して姿勢を正して、名前や職業やどこから来たかなど、一般的な情報を口にします。でも、エッセイは、この状態でリラックスして座って、「聞いて聞いて、昨日こんなことあってさ」と話し始めるのです。知らない相手に、いきなり心を開いた状態になるのです。
 それは本当は見えていないはずのテレビカメラの向こうの視聴者に親しげに「奥さん」と話しかけるタレントや、大勢のスタッフの視線にさらされながらふたりきりのラブシーンを演じる俳優の技にも似ています。


 エッセイを書くときは、部屋で友達と話しているときのような心の状態を作ってみてください。やり方は簡単です。「へえ、それでそれで?」と興味津々で聞いてくれる読者を思い浮かべながら書くだけです。実際に書いた作品を読んでもらう機会が増えると、自然に誰かの顔が浮かぶようになりますが、まだ誰にも読んでもらっていない場合は少しだけ難しいかもしれません。そのときは、わたしの顔でも思い浮かべてください。


 余談ですが、これは人前で話すときにも有効な方法です。大勢の前で話すときは緊張しますが、もし、お客さんにリラックスして楽しく聞いてもらいたい場合は、自分が先にリラックスすることです。リラックスして楽しく親しげにうなずいてくれるお客さんをイメージして、その人に向かって話すのです。心を開いてみせるのは勇気がいりますが、えいやっと先に開けば、相手も見せてくれるものです。


 さて、この「リラックスして友達と話しているイメージで書く」ときに非常に重要なことがあります。それは相手の知らない情報をさりげなく確実に伝えなくてはいけないということです。親しい友達に話すように書きますが、実際には読者の多くは初対面で見知らぬ他人だからです。読者はあなたがどんな人なのかを知りません(もちろん、あなたが有名人なら話は別です。ここの章は飛ばしてください)。何歳なのか、どんな仕事をしているのか、男なのか女なのか。容姿も声もわからないのです。それだけではありません。趣味が同じの友達ならわかってくれるであろう固有名詞や、同じ地域に住んでいる人なら当たり前の地名や習慣も、相手は知らないでしょう。


 相手が知らないことを、知ってて当然というように書いたら、いったいどうなるでしょうか。読者はさみしくなります。仲良しグループでしゃべっていたのに、突然自分だけが知らないテレビドラマの話題になったときの疎外感に似ているかもしれません。自分に向けて書かれていないと感じて、その先を読む気がしなくなってしまいます。

 こうならないためにも、常に原稿の隅々まで気を配り、読者の知らない情報が説明のないまま放りこまれていないかチェックしましょう。


 どんな人が書いているのかというのは、エッセイで重要な要素になります。有名人が書いてるのか、無名の人が書いているのかという話だけではありません。映画好きの人が書いているのか、映画をまったく見ない人が書いているのかによっても「面白かった映画」の意味が違ってきます。普通なら映画好きの人しか映画を語る権利がないような気がしてしまいますが、映画をまったく見ない人が初めて映画を見たエッセイがもしあれば、それはそれで興味深いと思いませんか? 絶世の美女の美容エッセイと、自分とよく似た体型と悩みを抱えた人ががんばって奮闘する美容エッセイがあったとしたら、わたしは後者を読みたいです。


 もし、どんな人間が書いたのかという情報がなければ、より詳しい人が書いたほうがいいものができるに決まっています。京都育ちではないわたしが京都のことを書いても誰も読んでくれません。もっと詳しい情報があるからです。でも、京都出身じゃないからこそ見えるものがあります。どんな人間がどんなふうに感じたのかという新たな要素が加わることで、情報は「エッセイ」になり、情報そのものには興味がない人でも面白く読める作品になる。それがエッセイの面白さであり武器だとわたしは考えています。


 相手の知らないことを書かないためには、相手が何を知っていて何を知らないかを把握しておくことが重要です。内輪の仲良しの人だけに読んでもらうSNSではこんな苦労をしなくてもいいのですが、作品として、同性だけでなく異性にも届かせたいと願ってしまったら、また、同年代の人だけでなく、上の世代にも下の世代にも届かせたい、価値観の違う人にも届けたいと思ってしまったら、読者を知らなくてはいけません。

 手っ取り早いのは、届かせたい相手(ターゲット読者)と話してみることです。ちょっとだけ勇気を出して知らない人と話すと、価値観や文化の違いに気づくことができます。自分の固定観念を壊し、何が常識で何が常識でないのか、どこまで説明すればわかってもらえるのか、自分のなかにデータベースのようなものができてきます。これは小説の登場人物を作るときにも必要なデータベースになります。文芸を楽しむ人にとって、知らない人と話すことは貴重なデータ収集の機会です……というと相手に嫌がられそうですが、でも、好奇心をもっていろいろな人と接し、いろいろな経験をしてみてください。それらがすべて糧になるのが、文芸というジャンルなのです。そしてついでにいうと、作品のネタのためという言い訳であちこち動いていると、いつの間にか人生が豊かになっているのです。

 少なくとも、損はしません。ぜひ試してみてください。

<まとめ>
・エッセイは親しい友人に話すようなイメージで書く
・でも本当は読者の多くは見知らぬ他人だということを忘れない
・エッセイには自分がどういう人間かを書く必要がある

・いろいろな人と接すると読者像が見えてくる

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