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【旧帝大漢文解説】2023北海道大学・深掘り篇

どーも、漢文マンです!
漢文の面白さを紹介する動画をYouTubeにあげてます。
さて、今日は【2023年度北海道大学・漢文】の本文を深掘りしてみたいと思います。
本文の解説はこちらの動画を見てね↓

上の動画の最後でも言った通り、本noteでは、
①本文「中略」箇所には何が書いてあるか?
②本文の続きの展開とは?
③本文に登場する『荘子』の原文
④同じく本文に登場する唐代「張説」の逸話の出典
について見ていきたいと思います!

本文を読んでからの方が話がわかりやすいと思いますので、まずは上の動画や下のサイトで本文読んで見て下さい!

では、まずは①から見ていきましょう!
(太字部分が「中略」されていた箇所です。)

【原文】
異史氏曰「世風之變也、下者益謅、上者益驕。即康熙四十餘年中、稱謂之不古、甚可笑也。

舉人(1)稱爺、二十年始。進士(2)稱老爺、三十年始。司・院(3)稱大老爺、二十五年始。昔者大令(4)謁中丞(5)、亦不過老大人而止。今則此稱久廢矣。即有君子、亦素諂媚行乎諂媚、莫敢有異詞也。若縉紳(6)之妻呼太太、裁數年耳。昔惟縉紳之母、始有此稱。以妻而得此稱者、惟淫史中有喬林耳、他未之見也。

【訳】
筆者の私が思うに、「世の風潮が変わってきて、下の者は益々媚び諂い、上の者は益々驕り高ぶっている。それでこの康熙四十数年の時代に、呼び方が昔の通りでなくなったのは、全く笑うべきことだ。

舉人を爺と呼ぶのは、康熙二十年に始まり、進士を老爺と呼ぶのは、康熙三十年に始まり、司・院を大老爺と呼ぶのは、康熙二十五年に始まった。昔は大令が中丞に謁見する時でも、老大人と呼ぶに止まっていた。しかし今ではもうこの呼び方が廃されて久しい。どんな立派な人間でも日頃から媚び諂い、何事にもヘコヘコするばかりで、わざわざ異を唱えようとはしないのである。縉紳の妻を太太と呼ぶようなのは、ほんのここ数年の話だ。昔は縉紳の母であって始めて太太と呼ばれていたのに。妻を太太と呼ぶ例は、『金瓶梅』の中の喬太太や林太太ぐらいのもので、他には見たことが無い。

(注)
1 舉人:科挙の郷試に合格し、進士の受験資格を得た者。
2 進士:進士の合格者。
3 司・院:両司と巡撫。すなわち地方の役人である按察使・布政使と各省の長官である巡撫。
4 大令:省の下位単位である県の長官。
5 中丞:省の長官である巡撫。
6 縉紳:地方の有力者。
『聊斎志異』巻八 「夏雪」

という訳で、中略箇所では、「呼称インフレ」が甚だしい事を示す例として、『聊斎志異』が書かれた清の康熙年間の役人や長官の呼称をいくつか例として挙げています。
まあ、確かにこの内容ならカットしても本文の大意に影響は無さそうですね。

では、続いて②に移りたいと思います。
今回本文に用いられた「夏雪」のオチに当たる箇所です。これくらいなら省略せずに本文に入れておいても良かったのに、くらいの分量です。

【原文】
丁亥年六月初三日、河南歸德府大雪尺餘、禾皆凍死。惜乎其未知媚大王之術也。悲夫。

【訳】
丁亥の年(1707年)6月3日、河南省の歸德府に大雪が降り、一尺ほど積もったので、稲が全て凍って枯れてしまった。惜しまれるのは、大王(土地神)に媚びる術を知らなかった事である。なんと悲しいことか。
『聊斎志異』巻八 「夏雪」

本文冒頭の蘇州の村と対比する形で、媚び諂う術を知らなかった地域の悲惨な末路を綴っています。上に媚びることができない「真っ当な人間」は今の世では生きていけないという事をこういった形で比喩してくるのは面白いなと感じました。

続きまして、③です。
本文中「由此觀之、神亦喜諂、宜乎治下部者之得車多矣。」の箇所について、次のような注が付いていました。

『荘子』列御寇篇に見える。治療に王の身体の下部(尻の痔)をなめることまでして褒美の車の多さをほこる者がいるという話で、諂う者と諂われる者との双方を揶揄している。
北海道大学2023 漢文

読んでいるだけで気分の悪くなる話ですが、折角ですから『荘子』の原文も見てみましょう。

【原文】
宋人有曹商者、為宋王使秦。其往也、得車數乘。王說之、益車百乘。反於宋、見莊子曰「夫處窮閭阨巷、困窘織屨、槁項黃馘者、商之所短也。一悟萬乘之主、而從車百乘者、商之所長也。」莊子曰「秦王有病召醫、破癰潰痤者得車一乘、舐痔者得車五乘、所治愈下、得車愈多。子豈治其痔邪。何得車之多也。子行矣。」

【訳】(明治書院「新釈漢文体系第8巻荘子(下)」から引用)
宋の国の人で曹商という者がいた。ある時、宋王の命をうけて秦の国へ使者となって行った。その出発にあたって、数乗の車が与えられたが、秦の国につくと、秦王は彼を喜んでもてなし、百乗の車を与えた。彼は、宋に帰ってから荘子に会って言った、「一体、狭苦しくごもごみした横町に住んで、貧乏生活をしながら草鞋を作り、痩せ衰えた首筋で、頭痛のために顔も土気色というようなのは、私の苦手とするところです。それよりは、一たび万乗の天子に説いて、百乗の車をいただくというようなのが、私の得意とするところです。」これを聞くと荘子は言った。「秦王は病気にかかって医者を呼ぶと、腫物を破って膿を出した者には車一乗を与え、痔をなめてなおした者には車五乗を与え、治療する部分が汚らしいところになればなるだけ、与える車の数も多くなるということだ。お前もきっと秦王の痔でも治したのだろう、いやにたくさん車をもらったではないか。けがわらしい。さっさと帰れ。」
『荘子』雑篇 列御寇第三十二

なるほど…。確かに注にある通り、「諂う者と諂われる者との双方を揶揄」している感じですね。しかしおじさんが自分の痔をわざわざ舐めさせて、その褒美に車を沢山あげるというのは、かなり上質なコントの予感がします。最後の荘子のあまりにどストレートな拒絶反応も非常に面白いですね。

それでは、最後に④を見ていきます。
本文にで紹介されている唐の張説の話は、『新唐書』張説伝が出典だと思われます。(『旧唐書』も見ましたが、こっちの張説伝には該当する話はありませんでした。)『新唐書』に載っているエピソードということで、真偽の程はかなり怪しい所ですが、まあそれは一旦置いておいて、原文を見てみましょう!

【原文】
始、帝欲授說大學士、辭曰「學士本無大稱、中宗崇寵大臣、乃有之、臣不敢以為稱。」固辭乃免。後宴集賢院、故事、官重者先飲、說曰「吾聞儒以道相高、不以官閥為先後。大帝時脩史十九人、長孫无忌以元舅、每宴不肯先舉爵。長安中、與脩珠英、當時學士亦不以品秩為限。」於是引觴同飲、時伏其有體。中書舍人陸堅以學士或非其人、而供儗太厚、無益國家者、議白罷之。說聞曰「古帝王功成、則有奢滿之失、或興池觀、或尚聲色。今陛下崇儒向道、躬自講論、詳延豪俊、則麗正乃天子禮樂之司、所費細而所益者大。陸生之言、蓋未達邪。」帝知、遂薄堅。

【訳】
かつて帝が張説に大学士の称号を与えようとした所、張説は拒んで言った。「学士には本来、大の称号は有りません。唐の中宗が大臣を寵愛していたからそのような呼び方があったのです。私はそのように称するつもりはございません。」断固として拒み、そのまま帰った。後に集賢院で宴会があった際、しきたりでは、官職が上の者から盃に口をつけることになっていたが、そこで張説が言った。「私の聞いた話では、儒学は道でもって人の高低をきめ、官職や派閥で先後を決めるようなことはありません。」……(以下略)
『新唐書』列伝第五十 張説

とりあえず、本文に引かれていた所までは訳しましたが、残りはまた後日…ということで(汗)
しかしこの話が本当なら、張説という人物は曲がったことは大嫌い系の人だったようですね。あれだけ媚び諂う事を揶揄していた蒲松齢からすると理想的な人物に映ったのかもしれません。

以上、北大2023漢文の深掘りでした〜。
北大を受験される予定の方も、そうでない方も、この記事で少しでも漢文面白いと思ってもらえたら嬉しいです。
次回は東北大2023の深掘りをやりますので、お楽しみに!

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