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051 現実即理想

現実の世界で「現実」と「理想」はよく対比される。
いくつかの国語辞典でも反語として記載される。
この二つのことばは主義と結びつき、現実主義・理想主義となる。
ライバルの如く対決し成長してきたことばである。

現代の傾向としては、甘い理想が厳しい現実に敗れることが多い。
現実の世界における理想には、幻想や空想といった意味を多分に含んでいる。
その幻想や空想ではとても厳しい現実に太刀打ちできない。
だから理想には、なにも役立たないものというニュアンスもついている。

理想を掲げることは、ただの現実逃避ではないかという解釈さえ出来うる。
それを裏付けるように、歴史をみれば理想を掲げて、その通りになったためしなどない。
どの時代のどの国をみてもいろいろ体制が変わっている。
どれ一つ理想ではなかった言えてしまうのである。

理想が理想として存在するには、空想や幻想といったものと区別されなければならない。理想には確実に実現可能との確信がいる。
時に「理想を言っても仕様がない。現実をよく見ろ。」と言われることがある。
あまり現実離れしていては理想ではなく、空想や幻想になってしまうのである。
だから理想は多分に現実に基づく必要がある。

現実に基づくということはどういうことか。
それは現実に近いということである。
現実より遠く達成できそうもないと思わせる理想はすでに理想ではない。
やる気が肝心といわれるように、やる気がおきない理想は全く実現不可能なのである。

仮にしぶしぶ強制的に実行しても成果はしれている。
どうころんでも到底、理想には近づかないのである。
だから達成できそうもないと感じさせる理想ではないのである。
その手の理想は、もともと理想になっていない。

理想とは思いつきで始まるのではなく、現実の解釈から始まるのである。
突き詰めれば、理想とは現実の解釈の仕方なのである。
現実をしっかり見据えて分析してこそよしと言われる理想ができる。
よくよく考えれば、理想の理想は現実にかなり近いところにある。

では次に現実とは、どういう状況か、考えてみる。
現代日本に暮らせば、ほとんどの人が収入を得て暮らしている。
それには、現在どこかに勤めているとか出先は違っても何等か収入を得ている。
当然だがその収入を得るためには事前の行為として労働がある。
その労働には、刺激的で楽しい面もある。
またその度合いと全く等しく嫌で面倒なものでもある。

しかし面倒で嫌な労働も達成された時は、効力感として返ってくる
労働は楽しくもあり苦痛でもある。
その苦楽の対価として収入を得ている。

では、なんで労働なんてそんな面倒な苦楽をするのか。
あたり前だが収入をうるためである。
ではどうして収入をうるのか。
これもあたり前だが消費するためである、
ではなぜ消費するのか。
生活するためである。
ではなぜ生活するのか。
命を維持するためである。
ではなぜ命を維持するのか。
生まれてしまったからとか死ぬが怖いといった理由になる。

いや労働とはなんらかの社会貢献するのが目的である。
その結果として収入があるのである、という考え方もできる。
ほかにも、労働を通じてスキルアップとかキャリアを積むとかも考えられる。
自身の見聞を広めるため、好きなことやるためなどの志に応えるためかもしれない。
これらように個人的な第一義の目的が収入でないこともある。
しかし、その結果として収入を得て消費して暮らしている。

断るまでもないが、収入がないと暮らしていけないのが現実の世の仕組みである。
だから労働の目的を社会貢献や自己のスキルアップなどとは本来できないことである。
それだけでは生きいけない、立場を保てないのである。
前提には労働の対価としての収入がある。
仮に自己実現を第一の目的としても、根幹となる下部構造は先のものと全く同じである。

再言すれば、労働しているという現実は、収入を得るという目的がある。
収入を得るのは、消費したい動機がある。
消費するのは、消費して生活するという現在日本の常識的な方法選択がある。
その生活するのは、みなと同じように命を維持したいという根本の意志があるからである。

ここにある真の理想とは「命が大事である」である。
それを了解しおり、方法の選択をして実践、達成、獲得しているのが現実である。

なぜ、「命が大事である」が理想なのか。
それは、命を維持しなければならないという理由は外的にはどこにもないからである。
仮に宗教や家族を含む社会に対する義務といえなくもない。
が、仮にそれを理由にしても、その理由はない。
理由自体に理由がないのであって、結局その選択は自分自身で決めていることである。
換言すれば、その理由を大事にしている自分を大事にしているということである。

生きるということは常にまわりから影響を受ける。
当人に生きる意志の自覚がないこともある。
しかしその根幹にあるのは「生きる」という全く自発的意思がある。
生きなければならない理由は、どこにもないのである。

同じように生活しなければならない理由もない。
浮浪者になってもいいし、未開の地にいってもいい。
消費せず自給する選択もある。
勤めでなく事業を起してもいい。
現実のいろいろな選択支の中からなんらいいもの選んで生きている、ということである。

「労働をしているという現実」は、「命を維持するという理想」を達成している。
「労働は命を維持するための現実である」となる。
「命を維持するための労働は理想である」ともなる。
人間であり、生きている以上、だれでももっとも大事な理想を達成している。

また、「現実」とは「リアル」という英単語の当て字である。
この現実という字面が表意しているものがある。
「現」は「隠れていたものが見えてくる意のあらわれる」である。
「実」は「まこと、実際である」。
「現実」とは「隠れているまことが実際に現れている状態」を表意している。
「リアル」とは「本物」「実存」もあり、語源の意は「物事」である。
また、「まこと」とは「理想」である。
現実とは隠れている理想が実際に現れている状態を意味しているのである。

この現実の理想は常には無自覚のかもしれない。
しかし大元にはちゃんとした意志・理想がある。
この理想は目の前の現実をしっかり見ている。
現実をしっかり分析し計画を立てて実行し、理想を達成しているのである。

これら一連はひとつのすぐれた理想の体系である。
同時に具体的に実行している現実がある。
だから「現実は理想である」となる。
仏教哲学風にいえば「現実即理想」となる。

そしてこれがもっとも強固な現実と理想の関係である。
それは現実と理想の同一化しているからである。
だから見えないときもある。


#小さなカタストロフィ
#microcatastrophe

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