見出し画像

<雑記>サヨナラ男

「さようなら」ではない「サヨナラ」である。
 続きが存在しない、反撃が許されない――それが「サヨナラ」である。この文章は「サヨナラ男」が、ただただ「サヨナラ」をされ続け、いつまでたっても「サヨナラ」の味を舐め続けるだけの文章である。

「サヨナラ男」(小学生編)

 小学校6年初旬、地域の野球クラブに所属した僕は2月生まれで、同学年で同じスポーツをする友達と比べて体格差があった。このことに気づくのは中学に入ってからのことだった。
 小学6年生の僕は足が速いと思っていた。遠くにボールを投げることができると思っていた。休憩時間に友達とするあらゆるスポーツにおいて、足を引っ張っていないと思っていた。

 さて、思い込みを事実に変換しよう。
「僕は小さな町の小さな野球チームでレギュラーになる程度には十分な運動能力を持ち合わせていた」である。
 打順は7番、ポジションはレフト。少年野球チームに所属してほどなく「7番レフト、カナ猫!」とセットのように呼ばれるようになり、隔週程度にある対外練習試合の度に僕は「はい!」と返事した。

 練習ではバントも盗塁も、ボール球を見極めての四球もとれる。大きな当たりこそないがヒットは打てる(実際は、三振するのが恥ずかしくてどうしても嫌だっただけで、追い込まれたら無理にでもバットに当てていただけだ)。
 守備面ではノックを受けていて、見当違いな場所に走ることもないし、見当違いな方向に返球することもない。あえてもう一度言う「練習では」だ。

 そう。試合の実績に基づかない練習中のイメージだけで、僕は「7番レフト」の定位置を任命されていたのである。

 公式戦でも僕の定位置は変わらなかった。
 監督は僕の名前とともに「7番レフト」を告げる。僕は勢いよく大きな声で「はい!」と返事して、(これは間違ったオーダーではないのだ)と自分に、そして周りにも思い込ませる必要があった。
 なぜなら、勝てば(当時の)広島市民球場で開催される県大会に進むことができる大事な試合だったからだ。僕はそのチームのメンバーの一人でいたかった。

 最終回裏の守備。2アウト、4ー1。3点差で僕たちは勝っていた。
 あとアウト一つ。しかし、ランナーは満塁。
 ホームランが出れば一発逆転――の場面とは言え小学生の試合である。ホームランなんてそう多くは出ない。
 しかし、レフトには僕がいた。試合で実績のない木偶の坊である。

 結論を書こう。
 僕は記録に残らないタイムリエラ―を犯し、ランニングホームランで4点を計上された。みごと逆転され「サヨナラ」負け。

 詳しく――いや、言い訳がましく──いや、”悔しく”書けば次のとおりだ。
 僕はバックホームのためレフトの定位置から少し前めに守っていた。真正面に飛んできたライナー性の打球に反応できず足は一歩も動かない。慌ててグローブを差し出したが触れることすらできず、グローブの数センチ上をボールが通過していった。
「おい! 何してんだ! 追えよ!!」
「え、あ、あ……」
 ショートを守っていたチームメイトが、放心状態の僕の横を涙目で駆けていった。その直前に見た、白球が視界から消えていく際の映像はスローモーションとなって保存され、今も僕の記憶から消えていない。
(真正面の打球の目測をつけることは、守備面での一つの大きなハードルである。僕は見事に公式戦でそのハードルに躓いた。※ボールに触れていないため、記録上はランニングホームランとなった)。

 咎められるべきは僕一人で、誰にも(僕自身としても)異論がないことは明らかだったと今でも思う。

「サヨナラ男」(中学生編)

 中学になった僕は足が遅いことに気づいた。剛速球を投げることができないことに気づいた。ホームランなんて夢ですら体験できないことだと、憧れなんて抱きもしなかった。

 ポジションはサードに変わったが、レフトにこだわりがあったわけではないので気にしていない。ただ、僕にとって、守っていて「打球を後ろにそらすこと」が一番怖いことで、何が何でも身体に当てて打球を前に落とすことを考えていた。
 まあ、小さな町の小さな中学の野球部でのできごと。一番強いボールを投げる人が投手、二番目に強いボールを投げる人が捕手、三番目以降の僕はサードに配置された。その程度のことだろうと理解していた。

 2年の夏、エースが故障した。これを受け、キャッチャーが投手にコンバートされたがノーコンだった。試合にならない。
 次に声がかかったのは僕だった。
 初めてブルペンで投球練習をするとノーコンだった。が、「おい、腕下げてみるか。サイドスローで投げてみたらどうだ」と監督の一言。これが僕を試合でマウンドに上がれるまでの投手に変えた。

 中学3年の夏、投手になって1年あまり。
 最後の県大会予選。勝てば県大会に出場が決まる試合で、僕はマウンドに立っていた。

 最終回裏の守備。2アウト、2−1。1点差で僕達は勝っていた。
 あとアウト1つ。しかし、ランナーは2・3塁。タイムリーが出れば1発逆転サヨナラ負けである──既視感があった。

 いや、正確に言えば既視感ではなかった。
 小学生の時の守備位置はレフト。僕の後ろには誰もいない。しかし、中学生の僕はマウンドに立っていて、背後にはチームメイトが守り、目の前には信頼すべき捕手がいるのだ。

 また、結論を書こう。
 読者の期待を裏切らない僕は右中間にサヨナラタイムリーヒットを打たれ、見事「サヨナラ」負けを喫したのである。

 念のため”悔しく”書いておく。
 中学生の僕は投手になってから一度も、捕手のサインを拒否するために首を振ったことがない。急造投手の僕にできることは限られていた気がしていたし、サインに全て首を縦に振ることでやっとこさ、僕はマウンドに上がることのできる程度の投手として機能していたと思う。
 捕手の球種サインが出ると、僕は間髪入れず首を縦に振る。
「うん」
「ここに来い」(アウトローいっぱい)
「うん──」
 サヨナラタイムリーを打たれた1球は「ストレート」のサインだったことを今でもよく覚えている。投げたコースはど真ん中だった。

「サヨナラ男」(高校生編)

 高校では硬式野球がしたかった。
 が、一方で僕は身の程を知ってきていた。野球部として対外試合や練習試合をこなすのには取るに足る人数が揃っている程度の高校を選んだ。

 入学当初、僕を含めて4人の投手候補がいた。3年時にレギュラーになったのは僕を含め2人だった。僕が生き残った理由は「おい、腕もっと下げてみたらどうだ。サイドじゃなくて、思い切り下から出るアンダースローまで下げてみろ」という監督の一言だろう。

 僕はストレートの最高球速が129km/hの凡庸な投手だったが、もう一人の同学年投手の最高球速は140km/h近く出ており、比べるまでもない。僕は変化球とコントロールに傾倒し、試合では配球の半分以上が変化球になった。
 中学の捕手とは高校で別れたが、マウンド上の僕は相変わらずで、サインに首なんて振れやしない。ノミの心臓もいいところだ。いや、ノミにさえ笑われてしまうかもしれない。

 そりゃあ強打者を変化球で打ち取ると気持ちいいし、アンダースローで完投勝利した晩は心臓の鼓動が強く続き、寝付けないような高揚感を得たこともあった。しかし、当時の僕はエース番号を背負っていながらも「僕がエースだ!」と胸を張って誇示したことは一度もない。そんな勇気も資格も僕にはなかったのだ。

 高校三年、最後の夏の大会。三回戦。
 前の二回戦の試合で先発した僕はリリーフとしてブルペン(投球練習場)で念の為肩を暖めていた。

 9回裏の守備。1アウト、2-0。僕が試合に出なくても勝っていた。しかし、9回になってもなお、僕はブルペンに入り肩を暖め続けた。
 見つめていたダイヤモンドでは味方投手が2連打を浴び、ランナー2・3塁。一打同点の場面である。

 結論を書こう。
 僕ではない投手が更に2連打を浴び、逆転サヨナラ負けである。

 続けて“悔しく”書こう。
 最初の2連打でランナーが溜まった時点で、僕はタイムがかかると思っていた。投手交代──ではない。
 単純に間をあけるためのタイムだ。連打を浴びて投手と捕手が冷静さを失っている際、頭を冷やすのにはタイムが一番いい。だが、一度たりともタイムはかからなかった。監督もベンチのチームメイトも、内野手の誰一人も、「タイム」の三音を発せなかった。
 一方で僕が立っていたのは球場の隅のブルペンである。
 背後にはチームメイトがいないし、試合にも出ていない。しかしながら、チームメイトと試合に出ている選手全員を見渡すことができるのは僕一人だっただろう。
「僕が投げます!」とまではいかずとも、「タイム、取りましょう」とベンチに駆け出すことさえできなかった。

 重大な記述を抜かしてしまったが、僕はチームの主将だった。この事実から僕はブルペンにいてもなお、「サヨナラ」に責を感じざるを得なかったのだ。

「サヨナラ男」(大学生編)

 大学に進学したら野球をする気は毛頭なかった。が、読者の期待を裏切らないためか、僕はグローブを持ってひとり暮らしのアパートに引っ越した。
 入学式があった週末、僕は久しぶりの軟式ボールに触れ、更に翌週にはマウンドに立って練習をしていた。

 留年した。
 野球と学業を両立することの難しさなど全く無いほどのお遊び野球部だったのに、留年した。学業は思いきり疎かにして遊びに耽り、週に2回の練習と1回の試合には必ず顔を出した。まあ、大学でもチームの主将になったので当然のことである。
 講義室には顔をまったく出さないが、球場には足しげく通い、アンダースローでマウンドに上がり笑っているだけの出鱈目キャプテン誕生の数年であった。

 ただ、大学の軟式野球部は和気あいあいとしており、「大学に入ってまで硬式野球はもういいか。けど野球はしていたい、ほどほどに真剣に」な人たちが集まっていた。軟式野球のサークルもあったが、あえて「部活動」を選んだチームメイト達とする野球が僕は好きだった。

 大学でも3回生になると「最後の大会」がある。
 規模は小さいが近隣県の大学が集まり競い合う恒例の大会だった。勝ったところで上の大会は無いため、勝っても負けても「終わり(引退)」ではあるのだが、軟式野球部に所属している僕たちとしてはどうせなら勝ちたい大会であることは間違いない。

 大会はトーナメント表により進み、負けた場合も敗者トーナメントに進み順位が決まる。3位決定戦が僕たちの最後の試合になることが確定した。
 さあ、サヨナラ男の、最終戦終盤の状況を記載しよう。

 最終回裏の守備。1アウト、4-4。同点である。守り切ればタイブレークという特殊ルールに突入する。
 しかし、ランナーは全ての塁を埋めており、満塁である。一打どころではなく、緩い内野ゴロでも点が入り「サヨナラ」の可能性がある場面だ。

 では、分かりきった結論を書こう。
 押し出しフォアボールで「サヨナラ」負けだ。一打すらなかった。3塁走者は“歩いて”ホームベースを踏み、僕は目の前でサヨナラの決勝点を奪われる瞬間を見つめていた。

 さて、4度目のサヨナラ負けともなると、”悔しく”書くべきか悩むところではあるが、例に漏らさぬよう“悔しく”記載することとする。
 最終回、前の回から後輩にマウンドを譲っていた僕は、守りにつくためライトに駆けていこうとベンチを飛び出した。すると背後から「ピッチャー、交代ね」との声。監督である──「監督」といっても、選手兼監督業を任されている学生監督であった。
 監督は前の攻撃で「代打、俺」を発動し、打席に立っていた。元々投手経験のある監督だったので、代打の後マウンドに上がると思っていたのだが、違った。
「このチームのエースはカナ猫くんでしょ? 最後だからマウンドはお前が上がれよ」
「ああ?! あ、んん」
 中学の途中から数えて8年。マウンドに立つ喜びを知っていた僕は連投の疲れを無視し、マウンドに駆けた。

 僕が押し出し四球となる最後の1球を投じるまで、ライトを守っていた学生監督の友人は「カモ〜〜〜ン!」と声を張り上げていた。打たせて取る意志もあり、自分がそういうタイプの投手だと自覚していたが、僕はライトに打球を運べなかった。
 どこにいても、サヨナラの前で僕は無力なのかもしれない。

「サヨナラ男」(社会人編)

 就職して、ひとり暮らしの部屋にグローブを飾った。
「もう野球はしない」なんて言葉は無意味な言葉だと分かっていながら、野球人はいつまで無責任な「もう野球はしない」発言をするのだろうか。新卒で入社した5月のゴールデンウィーク、僕は草野球のマウンドに立っていた。

 それからの僕は、小中高校、大学の友人に会うたびに「せっかくだから身体が動くうちはマウンドに上がりたい。プレイヤーとして」と言うことにした。
 サヨナラ男歴を知る僕の友人たちは「ふうん」と言い、無力な僕が野球というスポーツにしがみつく様を笑ってくれた。

 社会人の趣味の草野球に明確な終わりの大会はないと思う。
 毎年大会はあるし新社会人となった野球小僧が入団してくる。一方で辞める方と言えば、家庭の事情や転勤・転職などを理由に自然と野球から離れていくことか多いだろう。

 僕のサヨナラは雨に流された。
 平成30年7月豪雨である。床上浸水からの避難生活を送った僕は心身を病んだ。大学生時代に患っていたパニック障害も再発した。そんな中では生活の立て直しと仕事を続けるのがやっとで、草野球の試合なんて二の次で、いつしか試合の連絡が入ったら断るのが習慣になっていた。
 とはいえ、チームの所属を抜ける気はなぜだかなかった。

 嘘をついた。雨に流されてなどいない。
 僕はまた投手として試合に復帰した。どうしても人員が足りないとの参加要請があったからだ。不安な体調とマウンド上での快感は拮抗していたが、わずかながら快感が上回り、ドーパミンと汗が分泌される。求められてマウンドに上がるのは気持ちがいい。


本当のサヨナラは試合の途中で訪れた。
 サヨナラの状況すら覚えていない。おそらく3回の守備の途中、マウンド上の僕は連打を浴び、アウトカウントを一つとれたのか、二つとれたのかすら覚えていない。

 結論を書く。
 マウンド上で連打を浴び続けた僕はパニック発作を起こし、マウンドに立っていられなくなり選手交代。

 悔しくはないので、“悔しく”書けない。
 アウトカウントすら分からなくなった僕はマウンド上で、(いつまで投げ続ければいいんだ。どうやったらアウトがとれるんだ。このままだとマウンドから永遠に降りることができないかもしれない。僕がボールを投げなければ試合が止まってしまう。皆が僕の投球を待っている。僕が、僕が投げなければ。僕が、僕が次のプレーを始めなければ――)と、サヨナラの場面ではないのに恐怖の感情に支配されていた。
 正確に言うと、これはパニック発作にある脳内伝達物質の異常分泌により支配された感情であり、僕の本来の心情では発生しない。僕は野球が大好きで、サヨナラ男で、試合を閉じる最後の一球を何度も投じたことがあったのだ。それは勝利の一球でも、サヨナラの一球でも、最後の一球は最後の一球なのである。
「すみません。中途半端なタイミングでマウンドを降りて」と交代の投手に頭を下げると、僕は静かなベンチ裏に一人で引っ込み、試合と僕の異常な心が静まるのを待った。

 幸い、ほどなく発作は収まり、当の試合が終了する最後の一球を見届けることは出来た。しかし、以降の僕の脳には「マウンド上は恐怖の場所である」とインプットされ、マウンドに上がることができなくなった。いや、それだけではない。投手をしないにしても、「試合中のフィールドは恐怖の場所である」とインプットされていた。
 試合の連絡が来るだけで、恐怖を感じるようになっていたのだ。
 以来、気づけば、3年以上野球の試合に出ていない。
 身体も衰えを感じるようになり、また別の不調も出てきた。おそらく、もう二度とマウンドに上がれないのでではなかろうか、と思う。現に、所属していたチームからも正式に脱退した。

 記録上に「サヨナラ」とは記載されないが、これが僕の――「サヨナラ男」の本当のサヨナラである。

 先に書いたとおり悔しくはない。30歳と少しまでアマチュアの草野球とはいえ、マウンド上で全力投球ができたことは嬉しい限りだ。別に続けることに意味があると言いたいわけではない。ただ、野球という経験が、サヨナラ男という経験が僕の人生の記憶の中にあるだけで、これは栄光ではない。

 もし、何かの機会に、地域の草野球か何かでマウンドに上がることがあるかもしれない。その時はマウンド上に立って、再び「サヨナラ」の味を舐めればよい。思い出してみても――いや、ある時からずっと舐め続けている「サヨナラ」の味はそんなにまずくはないものだ、と僕は思う。


 おしまい。またね。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。