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〈雑記〉血が吹き出ても、次のシーンが無ければ死なない

 はい。こんにちは。
 映像が浮かばなくなりました。頭の中に見えていた映像が途切れ途切れになり、次のシーンへと続かないのです。

 僕は小説を書いているときに、頭の中の映像を書いていることが多いのだけれど。ここに少し厄介といえば厄介なことがあって、僕は一人称視点で小説の登場人物が見た映像を見ているのです。
 注釈が一つ。先に書いた「登場人物が見た映像」というのは、正しく「登場人物」の話であって「主人公」ではないということ。あくまで、小説の登場人物のそのほとんどを指しているわけです。
 つまり、1シーンに主人公と主人公の恋人が存在していると、二人分の映像を見なければならないわけで。更に登場人物が存在していれば、三人分、四人分、と見なければならない映像が増えます。これは本当に「見る」ではなくて、「見なければならない」のです。
 それを僕は小説にして書いています。
 もちろん、見聞きした全ての事象を順に書いているわけではないくて、小説を小説たらしめるように書いているんですが──まあ、結局のところ時間がかかる作業だと僕は認識しているのです。しかも、僕は一人称視点の小説ばかり書いているので、主人公から見えないものは書かない(書けない)という無駄さ!

 小説を書く際に、三人称視点で見た映像を書く人もいるらしいですね。ただ僕の場合は、カメラ映像が次第にずずずっと移動していき、やがて登場人物の目の中に入りきってしまうんです。トレーニングしようと思ったらできるんですかね。わかんないですけど、三人称視点というのが僕には状況として理解できていないので、だめなのかもしれません。
 いや、三人称視点の小説は普通に楽しく読めますし、ふんふん、と納得しながら作家の皆様の技巧を見つけては「ひょおおお」ってなるんですけどね。
 ただ、根本的な理解ができていないんだと思います。だからできない。

 閑話休題ってここで言うやつですね? あってますよね? 
 閑話休題──
 とにかく、僕が体験しているのは、映像が途切れることなんです。動かない、風が吹かない。少し前の僕は登場人物の目の中に入っていて手や足を動かすこともできたし、風が吹いたら頬で感じることができたのに。
 主人公であれ、主人公の恋人であれ、目の中に入ってしばらく経つと、映像だったものが鏡の中で時間を固定されたみたいに奥行きを失い、更に色が失われます。だからといって、次の瞬間に別のシーンになるわけでもなく、ただただ想像が崩壊していくんです。鏡の中に固定された映像に、ピキーン! って真っ直ぐなヒビが複数入って、はいさよなら、おしまい、続かない。 

 なんやかんや書いてますが、僕はこれがいい事とも悪い事とも思っていません。「調子」なんていうよくわからない概念を人々は常々に口にしているわけだし、僕が「調子」を崩しているかどうかは僕自身にも分からないのですから。
 それに、僕が小説を書き始めた初期、小説というのは時系列や事実にベタっと貼り付いているように感じていたのだけれど、もっと断片的なハイジャンプ的な移動は可能なのだと解釈できるようになってきました。
 だから、僕はここ最近に近づくにつれて、小説の中の時間や映像の使い方を変えて書けるかやってみているわけで、この副反応が頭の中の映像が吹っ飛んで崩壊すること、なのかもしれないと解釈しています。

 あれ。書いてたら自己解決した雰囲気が出てきちゃった。
 いや、なんとなくですが、僕は雑記みたいな文章はやっぱり雑で好きじゃない。それにエッセイを書くようなサービス精神のようなオジサンの丸裸さみたいなものを、僕は持っていないのですね。

 一方、僕にとっての小説は、不特定多数に見せるべきでない痴態であり恥晒しであり。隠匿であり種明かし的でもある。しかし、ルールは確かに存在している。型破りだけでは乗り越えられないルール。小説のルール。

 とりあえず、2月の文フリ広島に向けて準備をしています。公募とかも気になりつつ、別に僕のすべては小説でもなんでもないし、鬼気迫るやつもなんもないので、少し笑えるような、少し変なくねくねした小説を書いておくことにします。
 才能溢れる皆様に、世界を任せて。


 あ、血尿はほぼ完治してきている(服薬は続いていますが)ので、今回の文フリにはたぶんちゃんと行けると思います。別の場所から血が吹き出なければ。

 おしまい。またね。

僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。