『古書店における自由研究』
「自由研究よ」
深夜帯にだけ開店する古書店の一角、古びた本棚の脇に寄りかかり、彼女は小さく三角座りをしたまま顔を上げて答えた。日に焼けた本に人差し指を挟んで持ったあと、もう一方の手で黒髪を耳にかけて僕を見上げている。
「カポーティの短編集を読むのが君の自由研究?」
「そう。自由研究よ」
僕はヘミングウェイしか読んだことがなくて、彼女の言う“自由研究”がどのようなものなのか聞けるほどの知識がない。ゆるんだTシャツを着た彼女の首元に汗の雫は無いが、数本の黒髪が蛇行して貼り付いている。
「暑いのに毎日よくやるね」
「暑いのは昼間だけでしょ? 夜は、静かにしていれば暑くないから」
「自転車を漕いだから汗だくだよ、僕は」
「そう。私は暑くない」
言葉ではそう言ったが、彼女の足元はサンダルだ。黒いベルトが二本、足の甲を通り過ぎている。見たところ僕よりも二回りくらい足が小さい。足のサイズに比例しているのか彼女は小柄で、「深夜徘徊」なんて言われて補導されないか心配になるくらいだ。
ただ、生まれた年を聞いてみると既に成人しているはずだから、実際に補導されることなんてないのだろう。
「暑いから僕は奥にいくよ。あっちの方がエアコンが効いてる」
彼女の横を過ぎ、僕は一番奥の書棚に向かう。黄ばんだ匂いのする背表紙の頭を指先で一つ一つ追っていく。僕は自由研究のために古書店に来たわけではないので、満足いくまで時間を使って本を選んだ。
3冊の本を手にしてレジへ向かうまで、彼女に話しかけられることはなかった。680円の代金をカルトンに置いてレジを離れる。
僕が店を出る頃になっても、彼女はずっと同じ場所に三角座りのままで、首筋には相変わらず黒髪が数本貼り付いていた。「暑くない?」と聞いてみたが「暑くない」と言い張った。
「明日、そのカポーティの短編集、少し読ませて」
会話の糸口として僕はそれだけ言ってはみたものの、彼女の返事を聞かず外へ出た。
彼女に会えるのは夏と決まっていた。今年も彼女がお決まりの場所に座り始めたのは8月頭のことだった。
「こんばんは」と三角座りをした彼女は僕を見上げ、「今年も来たのね」とつぶやいた。「何が?」と僕が聞くと、「ううん、夏が」と否定の返事と省略された言葉が返ってきて、僕は戸惑った。
「夏――」
「そう。今年も来たのね」
何年前の夏から彼女がお決まりの場所に座り始めたのか、僕は知らない。夏しか現れないのだから、この近くに住んではいないのだろう。
彼女はずっと同じ場所に座ったまま、いわば「座り読み」をしているわけだけれど、店長さんからは一切咎められたことはないのかもしれない。小さくなった彼女の横を通り過ぎる店長さんが「よっと」と言って、自ら迂回して本の整理をしている様子が目に浮かぶ。
盆が終わるころ、店の掃除を手伝うのが僕の習慣だった。本棚の整理のために本を抜き差しするだけで、漂っている古本の匂いが強く感じられる。
「古本はね、集めてるとジャンルも何もないから。一通り網羅したと思ってても、得体のしれない種類の本に新しく出会えることがあるんだ」
「僕は小説が読めればいいです」
「ああ、あの子もそう言ってたな。まあ、君とは違って、海外の小説しか読んだことがないらしいけど」
「僕は興味ないんで」
「へえ」と言ったあと、遠い目をした店主は「今日は静かだね。夏の終わりになるとさ、セミは夜に鳴かなくなるし。まあ、そのうち昼にもセミの鳴き声なんて聞こえなくなるけどさ」と、彼女の定位置をしばらく眺めた。
「僕はセミにも興味ないんで」
「へえ。まあ、君や彼女みたいな子のためかな、俺が古書店を続けてる理由は。好きなだけ読めばいいんだ」と誰もいない本棚の隅の埃をはたいた。
秋の虫が鳴き始める頃。
古書店での彼女との時間が今年も終わる。
「例えばさ、私か、あなたか、あるいは店長さんか。そのうちの誰かが死んだとしたら、あなたは来年もここに来る?」
唐突な質問であって、荒唐無稽すぎる。自由研究にしては野蛮な発想だ。
「どうだろう。僕には想像もつかないし、即答はできないな。でもさ、もし僕が死んだとしたら、僕はここに来ることができないじゃないか」
「そうかな。身体的な、物理的な、存在的な意味を抜きにしたら、あなたがこの古書店に来る方法はない、なんて完全に否定することはできないはずよ」
「それは──自由研究のやりすぎだよ」
野蛮な自由研究を僕は鼻で笑ってあしらった。
彼女は本の途中に挟んでいた指を抜いて、完全に本を閉じる。手の中のカポーティの短編集の表紙は湾曲してしまっている。古書だからか、彼女が握り占めているからか。
「んーん。もしかしたら、あなたはもう──」
「ないない、そんなはずないじゃないか」
僕が指先に感じている古書の匂いは現実のもののはずだ。
後ろ手を振って、僕はカウンターのカルトンに小銭を置いた。彼女が寄りかかっていた本棚の傍に、埃はたきが立てかけられているのを一瞥してからドアをくぐる。
カポーティの短編集は今年も売れなかったらしい。レジの脇に平置きされたまま、埃を被っていた。
(おしまい)
僕の書いた文章を少しでも追っていただけたのなら、僕は嬉しいです。