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【短編小説】赤い実

  ありきたりな毎日。時計の音を恨みながら目覚め、電車に詰め込まれ、会社に通う。文字通り通っているだけだ。
 ただ黙ってデスクに座り、ちょこちょこと帳簿の整理や、社内備品の補充などだらだらやってれば、時は過ぎる。リストラだのなんだのといわれているが、叔父が専務であるコネ入社の俺には、リストラはあり得ない。かといって、出世の見込みもない。無駄に一流大を出て、入社当時の期待をことごとく裏切り、いまじゃ総務の窓際だ。
 同期のなかには、生き生きと楽しそうに仕事をしている奴もいる。だが、人は生まれた以上必ず死ぬのだ。どう生きていこうが、死ぬときゃ死ぬのだ。死は誰にでも平等にやってくる。どう生きていっても、行き着く先は同じだ。適当に生きていけばいいのだ。俺は生きながら死んでいる。明日、死んでしまってもかまわないと思いながら。
 明日、三十になる。だが、それがなんだというのだろう。食うために会社に行き、食うために眠る。毎日ただ、最低限のやらねばならないことをこなしているだけだ。

 いつものように会社帰りにコンビニに寄り、弁当を買って帰る。会社以外では誰とも話さない、会社でも必要最低限の会話しかしない。いつ笑ったかもう忘れた。友人もいない。必要だと思ったこともない。独りであるということは、頼りないものなのかも知れないが、独りである気楽さを捨てることはできない。独りで生き、独りで死ぬ。俺のこだわりはこれだけだ。

 テレビを見ながら弁当を食い、風呂に入りビールを飲んで寝ることにした。俺がこの世からいなくなる日まで後何日なのだろう。
 電気を消し、万年床に体を預け眠りの淵をさまよっていた。耳元で声が聞こえるような気がする。夢うつつの状態なのだろうか。

「あけて、あけて」
 隣の部屋からだろうか? 隣の若者は、年中違った女を連れ込んで、艶色の声を披露してくれる。俺だって性欲が無いワケじゃない。その声を聞きながら処理したこともあった。
「あけて、おねがい」
 声は切迫しているように聞こえる。隣から聞こえる声がこんなにハッキリ聞こえるものだろうか?
「ねえねえ。山下さん、あけて」
 俺は飛び起きた。山下って俺のことか? 『あけて』と言う声は俺に向かって呼びかけているのか? 
 あわててドアに向かい、のぞき穴から外を見る。すると、そこに二十代半ばくらいの女がたっている。
「山下さん。あけて」
 間違いない、俺に向かって言っているのだ。だが、俺はこんな女知らない。
「あ、あの……なにかの間違いじゃないですか?」
「いいえ。山下良樹さん。お話があります。あけてください」
 女はしっかりした口調で言った。
「は、話って……こんな夜中になんですか?」もしや、たちの悪いセールスなのだろうか。それとも、新聞の勧誘? いや、それにしてもこんな夜中に来るはずがない。それにどうして俺の名前を知っているのだ? 表札には山下しか出していない。いや、名前なんていくらでも調べられる。
「ここではなんですので、できたらいれてもらえませんか?」いれろったって、こんな夜中にいくら女とはいえ、見ず知らずの奴を部屋に招き入れるほど俺は寝ぼけてない。
「あ、あのう。夜、遅いですし、また出直してくれませんか。明日早いから、もう寝るところなんで……」
「ダメです。今夜中にお話ししなきゃいけないのです。お願いです。話を聞いてください」女の声は、ますます切願しているように聞こえる。
「でも、話って……」
「とにかくあけてください。変な奴だとお思いなのは充分承知しております。それでもどうしても聞いてもらいたいのです」
 俺は腹をくくった。もし、この女がどんな奴でもかまうもんか。この女がたとえば殺人鬼で、めちゃめちゃに刺されて死んでも、俺の寿命の尽きる日が来たってことだ。失うモノなんて無い。
 それでもやはり、手のひらに汗がにじむ。ドアノブをゆっくりまわしそっとドアを開ける。半分開いたところで、するっと女が腕の中に飛び込んできた。何が起こったか解らずに、身動きとれない。女の体から薫る甘い匂いに、目眩すら感じる。俺の胸に顔を埋めてささやく。
「抱いて」

 いったいどういうことだ。

 彼女の名前は、瑞香(みずか)というらしい。白い肌に、整った顔立ち、淡いグリーンのワンピースが彼女のプロポーションを引き立てている。テレビに出てくる女優にだって負けてない。そして不思議な甘い香りがする。こんな美女がいきなり俺の前に現れて、「抱いてくれ」だって? なにかの冗談に違いない。インスタントのコーヒーを淹れながら俺はいったい誰のいたずらかを考えていた。
「――それで?」カップを汚い部屋の真ん中に座っている彼女に手渡す。
「ありがとうございます」白くて細い指が、ひびの入ったカップを大事そうに受け取る。
「驚いたでしょう。ごめんなさいいきなり」
「あ、ああ、突然『抱いて』なんて、誰だって驚くよ」
「あなたの顔を見て、嬉しくなってしまって。つい……」白い頬が薄紅に染まる。「どうしてもあなたに会いたかった」
 まっすぐ俺を見つめ、まじめな顔で彼女は言った。
「私、明日死んでしまうことになってるのです」
「――?」
「おかしな話だとお思いでしょうけど、私は未来が見えます。一週間前に、私見たんです、あなた……山下良樹さんに抱いてもらわなければ私の未来がないということが」
 どういうことなんだろう。この女、瑞香は、俺とセックスしないと死ぬって? そんなおかしな話があるのだろうか。
「お願いです。私と……私を抱いてください」
「だ、抱いてって……そんな急に言われても……」
「私、病気とかそういうのもってません。それにこんなこと初めてなんです」耳まで真っ赤になって彼女はうつむいた。
「たいへん厚かましいお願いかも知れないですけど、今夜中に、その……私と……私と……セ……ちぎりをかわしてくだされば……」
 セックスという言葉をためらったのだろう。それにしても『ちぎり』とは随分古い言い方だ。
「いくらなんでも、初めてあったあなたと、そんな関係には……」
「お願いです! もう時間がないの!」瑞香は立ち上がり、グリーンのワンピースのボタンをはずしはじめた。
「ちょ、ちよっと待って!」
「ダメですか? 私、あなたに抱いてもらえませんか?」
「そ、そ、そういうわけじゃなくて、もっと知り合ってからとか、お互いのことなにもしらないのに……」
「知らないと、抱けないの?」潤んだ瞳には、狂気の色はない。ただ、まっすくで力強い。
「私、女です。そしてあなたは男。それ以上なにか必要なことありますか?」
 何一つまとわない彼女の肌は、まるで白い花の花弁のような色をしている。俺の首に手を回し、薄く紅い唇が俺の唇に重なった。彼女の肌の匂い。甘い匂い。どこかで嗅いだような懐かしい香り。なにかが俺の中で弾けた。
 頭の後ろのほうから『どうせ死ぬんだから』という声が聞こえたような気がした。

 口の中に不快感を感じ、目が覚めた。猛烈に吐き気がする。口の中いっぱいに赤い実が入っていた。すべて吐き出しむせ返る。なぜこんなものが?
 気分が悪い、目が回っている。窓の外は朝だった。いつものように時計がうるさく時を告げている。寝転がったまま部屋を見回すが瑞香の姿はどこにもない。まるで昨夜のことは夢だったように感じる。ただ一つ瑞香がそこにいたことを示しているのは、飲まれなかったコーヒーと、残り香だけだ。
 やはりからかわれたのだろうか。ただの戯れだったのか。それとも俺が狂っているのか。
 会社を休もうと思い、まるで縛り付けられているような重い体を無理矢理動かし、受話器に手を伸ばす。会社の電話番号が思い浮かばない。目の前がぼやけて見える。俺は受話器を取り落とし、ふたたび布団に倒れ込んだ。
 おかしい。この具合の悪さは普通ではない。体が痺れて動かない。
 ああ、そうか。時が来たのか。
 瑞香は、俺の終わりの時を告げに来たのか。瑞香の吐息、体の重み、手触り、夢のようなあのひとときが終焉の時を語っていたのだ。
 俺は目を閉じ、耳の奥で終わりの音楽を聴いていた。

 もう一度目覚めたときは、病院だった。俺はまだ生きていた。俺の傍らに瑞香がいて、心配そうにのぞき込んでいる。瞳に涙を浮かべながら。
「よかった……。このままもう二度と目が覚めないかと思った」俺の手を握りながらつぶやく。
「俺……どうして?」
「私が戻ったとき、あなたは意識が無くて倒れていたの。急いで救急車呼んで、手当してもらった」
「病気だったのか?」
「……あなたは、毒物を飲んだって……お医者様が……」
「毒?」毒物……俺は自殺をしたのか?
「丸1日眠り続けていたわ。でももう、終わったことよ。あなたはちゃんと生きてる。よかった……本当によかった。私、ずっと一緒にいるから。あなたのそばにいるから」
 瑞香の白い手に力が加わった。俺の手を痛いほど握りしめている。

 俺が自分の手から逃げ出さないように。

 やはり俺は昨日死んだのだ。この先、瑞香と決して離れられないだろうという予感があった。瑞香の香りから逃げられないのだろうと思った。今までの俺は生きたまま死んでいた、そしてこの先も瑞香のために生きたまま死んでいくだろう。そう、瑞香の放つ香りがなんの香りであるか気が付いたのだ。
 沈丁花――。
 瑞香は俺のところに受粉しにきたのだ。花として実を付け種子を残し命を受け継ぐために。
 口の中いっぱいにほおばっていた赤い実は沈丁花の実だったのだろうか。

 美しくかぐわしい花の実は毒なのか――。


 

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